別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年4月15日金曜日

立正安国論~鎌倉と日蓮~

「法華経こそが真の教え」と唱えた日蓮は、1254年(建長6年)、名越松葉ヶ谷に庵を結び鎌倉での布教をはじめました。

(小庵の旧跡として、安国論寺長勝寺妙法寺がありますが、実際に何処にあったのかは定かではありません。)

弟子として、材木座の実相寺を開いた日昭や長谷の光則寺を開いた日朗がいました。


日蓮辻説法跡




小町大路には、日蓮が法華経の流布のために演説を行ったという辻説法跡が残されています。

この辻説法によって、長谷の収玄寺にゆかりのある四条金吾などの武将も日蓮の活動に参加しています。



安国論寺の御小庵
この庵の奥に御法窟と呼ばれる岩窟があります。
日蓮は、ここで『立正安国論』を著したと伝わっています。


1260年(文応元年)7月16日、日蓮は、『立正安国論』を書き上げ、宿谷光則を通じて当時の最高権力者である得宗北条時頼に提出します。


その冒頭には、

「天変地異・飢饉・疫病が遍く天下に満ち広く地上を覆っている。牛馬はそこかしこに倒れ人の屍は路にあふれている。 死者は大半を超へ、これを悲しまない人は一人もいない。」

と記されています。

この頃の鎌倉は、地震や洪水などの自然災害が頻発していました。当時の鎌倉の街は『立正安国論』の冒頭に記されたとおりの状況であったと考えられています。


さらに、法然の念仏を批判し、

「念仏を禁止して正しい教えを広めなければ外国の侵略があり内乱が起こる。

と予言しています。蒙古襲来(元寇)二月騒動の予言です。


しかし、幕府には受け入れられず、念仏信者によって松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされます(松葉ヶ谷の法難(参考:安国論寺妙法寺))。

翌年には、再び鎌倉で活動を始めますが、幕府は日蓮を逮捕し伊豆の伊東に流しました(伊豆の法難(参考:妙長寺))。

それから2年後の1263年(弘長3年)、許された日蓮は再び鎌倉で布教を開始します。

翌年には、念仏信者の東條景信に襲われ重傷を負いますが、さらに自信を深め活動したといいます(小松原の法難)。


松葉谷日蓮上人遺跡の碑

立正安国論の碑(安国論寺)
この碑には『立正安国論』の結びの部分が刻まれています。
汝早ク信仰ノ寸心ヲ改メテ
速カニ実乗ノ一善ニ帰セヨ
然レバ則チ三界ハ仏国也
仏国其レ衰ヘンヤ
十方ハ悉ク宝土也
宝土何ゾ壊レンヤ
国ニ衰微ナク土ニ破壊ナクンバ
身ハ是レ安全ニシテ心ハ是レ禅定ナラン
此ノ詞、此ノ言、信ズベク崇ムベシ



~外国の侵略の予言~
(蒙古襲来の予言)

1268年(文永5年)、蒙古からの使者が太宰府に到着し、日本に隷属を求める国書が届けられます。『立正安国論』の予言どおりの国難が降りかかってきたことになります。

時の執権は北条時宗でしたが、日蓮は、時宗に手紙を書いて法華経信仰を勧め、建長寺の蘭渓道隆や極楽寺の忍性にも手紙を書き、弟子となるよう伝えたといいます。

このころから、念仏宗に加えて禅宗や律宗への批判も始められました。


~龍ノ口の法難と佐渡流罪~

1271年(文永8年)、極楽寺の忍性が幕府の命を受けて雨乞いの祈祷を行います。

日蓮は七日のうちに雨が降れば、これまでの言は取り消して忍性の弟子になるが、降らない場合は法華経に帰依するよう伝えます。

結局、雨は降りませんでした(参考:霊光寺)。












その後日蓮は、忍性や光明寺の良忠に「日蓮は武器を蓄え凶徒を集めている」と訴えられ、得宗の御内人平頼綱によって捕らえられてしまいます。

龍ノ口刑場に送られて処刑されるはずでしたが怪異現象が起こったことで中止となり、佐渡への流罪となりました(龍ノ口の法難)。


龍ノ口刑場跡碑
龍ノ口法難の霊跡には、龍口寺が建てられ、
境内には、日蓮が幽閉されたという洞窟が残されています。


~内乱の予言~

1272年(文永9年)2月11日、二月騒動が起こります。

執権北条時宗は、謀叛の疑いで名越時章と弟の教時を誅殺しました。

それから4日後の2月15日、京都では、時宗の異母兄で六波羅探題南方を務めていた北条時輔が、同じく北方の北条義宗に討たれています。

日蓮は、この事件の1ヶ月前に鎌倉に騒動が起こることを予言していたといいます。

そして、『立正安国論』に書かれた「内乱が起こる」という予言はこの事だったともいわれています。


~「蒙古軍の敗退」と『立正安国論』~

1274年(文永11年)、佐渡流罪を許された日蓮は鎌倉に戻りますが、平頼綱に蒙古への対策について意見し、法華経を信じるよう要請しますが相手にされませんでした。

間もなく、身延に建立した久遠寺へ入山しています。

その年の11月、蒙古軍は博多に押し寄せてきました(文永の役)。このとき、日蓮は自らの予言を改めて信じたといいます。

1281年(弘安4年)にも2度目の襲来がありましたが(弘安の役)、いずれも大風によって蒙古軍が退散しています。
(参考:元寇(蒙古襲来)

『立正安国論』に書かれた「外国による侵略」は、執権北条時宗の政策もあって何とか退けることができました。

蒙古軍が敗退したことは、日蓮にとって予想外のものだったとも考えられますが、そのことについて日蓮は何も語っていないようです。


日蓮像
身延に入山してから10年近く外に出ませんでした。
1282年(弘安5年)、
体調を崩していた日蓮は常陸へ湯治の旅に出ますが、
その途中、武蔵野国の池上宗仲邸で亡くなっています。

小町大路



 鎌倉手帳


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