別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年1月8日土曜日

中世武家政権と江の島

江の島


江島神社は、欽明天皇の勅命で岩屋に宮を建てたのがはじまりとされ、その後は、神仏習合の与願寺として信仰を集めてきました。

鎌倉に武家の政権が発足すると、江の島もその影響を受けるようになります。


天女と五頭龍

『江の島縁起』では、552年(欽明13年)、天女出現ともに忽然と現れた島が「江の島」であると伝えています。



江島神社龍口明神社に置かれている絵本です。

江の島の天女(弁財天)と五頭龍の伝説がわかりやすく描かれています。


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~源頼朝の参詣と北条氏の家紋~

『吾妻鏡』は、1182年(寿永元年)4月5日、源頼朝が47名の御家人とともに江の島岩屋に参詣し、文覚に命じて弁財天を勧請したと伝えています。

これは、奥州平泉の藤原秀衡の調伏を祈願したもので、この行事がきっかけとなって、鎌倉時代には将軍家や北条執権家が江の島を訪れるようになったといいます。




『太平記』には、北条時政が、1190年(建久元年)に江の島に参籠して子孫の繁栄を祈願した際に、天女(龍神)が現れて子孫繁栄を約束し、

そのときに残されていた3枚の鱗から、北条氏の家紋である「三つ鱗」(ミツウロコ)が誕生したという説話が載せられています。


江の島岩屋
岩屋から見える海

江島神社
江島神社の神紋の三つ鱗


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~源実朝の命による辺津宮の創建~

辺津宮は、1206年(建永元年)、三代将軍源実朝の命を受けた鶴岡八幡宮の供僧良真によって建立されたと伝えられています。

かつては、良真の木像が安置されていましたが、現在は聖天島の社に安置されています。

瑞心門横の蟇石には良真の伝説が残されています。


聖天島


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~陸続きになった江の島~

『吾妻鏡』では、1216年(建保4年)、江の島と片瀬が陸続きとなって船を使わずに渡れるようになったことが記されています。


江の島トンボロ


江の島は片瀬の浜と砂州で結ばれている陸繋島(りくけいとう)です。


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~室町時代の江の島~

=鎌倉幕府の滅亡=

1333年(元弘3年)、新田義貞が鎌倉を攻め鎌倉幕府を滅ぼすと、政治の中心は再び京都に移ります。

そして、足利尊氏は京都の室町に幕府を開きますが、鎌倉はなおも重要な地として、室町幕府の出先機関としての「鎌倉府」が置かれました。

江の島も鎌倉府によって保護されていました。


=永享の乱=

1438年(永享10年)、鎌倉府の四代長官(鎌倉公方)の足利持氏は、京都の六代将軍足利義教に対して反乱を起こしますが、持氏は敗れて翌年、鎌倉二階堂の永安寺で自刃しました(永享の乱)。

永享の乱後しばらく鎌倉公方が不在となりますが、1449年(宝徳元年)、持氏の子成氏が擁立されます。


=江の島合戦・上杉憲忠暗殺・享徳の乱=

しかし、成氏は山内上杉家宰の長尾景仲と扇谷上杉家宰の太田資清に襲撃され江の島に避難します(江の島合戦)。

一旦は和睦が成立し成氏は鎌倉に戻りますが、1454年(享徳3年)、成氏は関東管領の上杉憲忠を謀殺します。

これが鎌倉を長い戦乱の中に巻き込む享徳の乱のきっかけとなりました。

翌年、成氏は江の島岩本坊の間宮氏に鎌倉警護の勲功を感謝する書状を送り、ますます忠勤に励むよう促しています。

岩本坊は江の島本宮の別当で江嶋寺とも呼ばれていました。現在の岩本楼です。

足利成氏の感謝状をはじめ、古河公方家や小田原北条氏(後北条氏)からの書状が多く残されているそうです。


岩本楼


=足利成氏が鎌倉を離れる=

1455年(康正元年)、室町幕府の命を受けた今川範忠が鎌倉に攻め入ると、成氏は古河に逃れ「古河公方」と呼ばれるようになります。

これによって、源頼朝の鎌倉幕府創設以来、武家政権の中心として繁栄した鎌倉が衰退していくことになります。


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~戦国時代の江の島~

古河公方最後の足利義氏の頃の江の島は、すでに小田原北条氏の支配下にありました。

1504年(永正元年)、伊豆の韮山城から武蔵国に出陣した北条早雲は、江の島で乱暴狼藉をしないよう禁制を出しています。


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江の島

江ノ電で鎌倉





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