別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2010年12月26日日曜日

藤沢に残された源義経の伝説

源義経は、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦に勝利し、父義朝の仇である平氏を滅亡させたいう英雄ですが、兄頼朝とはうまくいかず、1185年(元暦2年)、平宗盛を護送し鎌倉に凱旋しようとしますが、鎌倉入りを阻止されてしまいます。

七里ヶ浜には、義経の鎌倉入りを阻止するために「関所」が設けられていたと伝えられています(参考:金洗沢)。

義経は、腰越の満福寺から有名な「腰越状」を送ったそうですが、頼朝の許しを得られることはありませんでした。

その後、再び平宗盛を護送し京へ帰りますが、間もなく朝敵とされ、奥州の藤原秀衡を頼ります。

しかし、秀衡が亡くなると、後を継いだ泰衡に攻められ、衣川の館で自刃しました(1189年(文治5年))。

自刃した義経の首は、首実検のため鎌倉に運ばれてきました。その場所は、腰越の浜であったと伝えられています。


白旗神社
https://www.yoritomo-japan.com/sirahata-fujisawa.htm

源義経を祀る神社です。

『吾妻鏡』には、

「1189年(文治5年)、奥州平泉で自刃した義経の首が腰越で首実検された」

という内容の事は書かれていますが、その後どうなったのかは書かれていません。

白旗神社には、「境川を遡上して流れ着いた」とか、「弁慶の首とともに飛んできた」などと伝えられています。

弁慶の力石(白旗神社)

源義経公鎮霊碑(白旗神社)

源義経の没後810年を記念して建立された碑。

平成11年、宮城県栗原市の義経の「骸」と、藤沢の「首」の霊が合わせられました。

宮城県栗原市には「判官森」という所があって、ここに義経の五輪塔があるそうです。

「判官」というのは・・・

義経が後白河法皇からもらった「検非違使従五位下左衛門少尉」という官位からきています。

「左衛門少尉」という位を「判官」といいます。

「判官贔屓」(ほうがんびいき)の「判官」もここからきています。

つまり、この場合、「判官」=「義経」ということになります。


義経首洗井戸
https://www.yoritomo-japan.com/yositune-kubiarai.htm

奥州で自刃した源義経の首は、腰越の浜で和田義盛梶原景時が首実検しました。

その後この地に漂着した義経の首を、村人がこの井戸の水で洗い清めたと伝えられています。

清められた首が葬られた「首塚」もあったそうです。

のちに「首塚の北の山上に営まれた社が白旗神社である」という説もあります。


義経の位牌・・・荘厳寺
https://www.yoritomo-japan.com/sogonji-fujisawa.htm

1184年(元暦元年)創建の高野山真言宗の寺。

かつては、白旗神社の別当寺でした。

そのためかどうかわかりませんが、源義経の位牌が安置されているということです。


弁慶塚(常光寺)
https://www.yoritomo-japan.com/jyokoji-fujisawa.htm

浄土宗常光寺(鎌倉光明寺の末)にあります。

かつて、白旗神社の末社八王子社があった所とされています。

白旗神社の八王子社というのは、義経に従った弁慶を祀った社のことです。


常光寺

阿弥陀如来


平氏を滅ぼした英雄でありながら、ほとんど歴史にその名を残さず、短い人生を終えた義経の最期は、人々の同情を引いて「判官贔屓」(ほうがんびいき)という言葉を産んでいます。

これだけ有名な武将であるにもかかわらず、歴史上に登場するのは、ほんの数年間で、その中でも史実として紹介されているのは、1183年の木曽義仲の討伐から1185年の平氏の滅亡までの極短い期間となります。






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