別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2025年7月31日木曜日

甲府城と大和郡山城~柳沢吉保と吉里~




甲府城は武田氏滅亡後に築かれた城ですが、ここは甲斐武田氏初代当主・武田信義の子・一条忠頼の居館があった地。

1704年(宝永元年)、徳川五代将軍綱吉の側用人として活躍した柳沢吉保が城主となりますが・・・

吉保は一条忠頼から始まる一条氏の末裔といわれています。

吉保が甲府城に入城したことはなかったようですが、城主となった翌年、吉保は甲斐武田氏十九代当主・武田信玄の百三十三回忌法要を恵林寺で執り行い、武田氏に連なる一族であることを強調したのだといわれています。

同年、信玄躑躅ヶ崎館の麓に菩提寺となる永慶寺を創建しています。

1709年(宝永6年)、綱吉が亡くなると、儒者新井白石が権勢を握るようになり、吉保も幕府の役職を辞し、長男の吉里に柳沢家の家督を譲って隠居。

1710(宝永7年)には、吉保の子吉里が城主になります。

それまでの甲府藩主は、国元で直接藩政に携わることはありませんでしたが、この時はじめて藩主が国元に入りました。

1714年(正徳4年)11月2日、吉保が死去。

遺骸は永慶寺に葬られています。




大和郡山城は、戦国時代に豊臣秀長が大和国・和泉国・紀伊国三か国100万石の領主として入った城。

1724年(享保9年)には、甲府藩から郡山藩に移封された吉里が入城。

吉保が葬られた永慶寺も郡山城下に移されています。




甲府時代の永慶寺にあった吉保の墓は、信玄の菩提寺・恵林寺(甲州市)に改葬されました。

永慶寺に伝えられる柳沢吉保と夫人坐像は、甲府の仏師・大下浄慶(常慶)とその子息の作で、浄慶は恵林寺武田不動明王を制作した京の仏師・康清の子孫といわれています。

山門は大和郡山城の城門を移築したもの。



大和郡山城本丸跡にある柳澤神社は、吉保を祀る社。



大和郡山城二の丸跡の柳澤文庫には、柳沢家歴代藩主の書画をはじめとする多くの歴史資料が保存されています。




甲府城


大和郡山城








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興福寺


運慶 祈りの空間



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2025年7月30日水曜日

興福寺北円堂の弥勒如来と鶴岡八幡宮の薬師如来~鎌倉と運慶~



興福寺北円堂の本尊木造弥勒如来坐像は、1212年(建暦2年)に運慶らによって造立されたもの(国宝)。



鶴岡八幡宮銅造薬師如来坐像

鶴岡八幡宮の神宮寺にあったという銅像薬師如来像は、北条政子が1211年(建暦元年)に安置させたものと考えられています(重文)。

その原型は、慶派仏師によるものと考えられ、北円堂の弥勒如来坐像に通じるものがあるのだといいます。

銅像薬師如来像は、明治の神仏分離により壽福寺の所蔵となっています(鎌倉国宝館に寄託)。


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参考までに・・・

運慶は、鎌倉幕府と関係が深い仏師。

北条時政願成就院の造仏、和田義盛浄楽寺の造仏で知られています。

源頼朝永福寺の造仏にも関わったと考えられ、北条義時大倉薬師堂の造仏も手掛けています。

そして、北条政子源実朝の養育係だった大弐局など鎌倉幕府の有力な女性とも結びついていました。

北条政子は、勝長寿院に建立した五仏堂の五大尊像(五大明王)を運慶に依頼しています。

称名寺の塔頭光明院大威徳明王像は、大弐局の発願で運慶が造立しました。




運慶


興福寺


興福寺北円堂

興福寺南円堂


鶴岡八幡宮



運慶 祈りの空間









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南都焼討


南都焼討と東大寺の再興 ~重源と源頼朝~


東大寺大仏殿落慶供養


東大寺


歴史めぐり源頼朝


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2025年7月29日火曜日

鎌倉長谷寺の四万六千日~8月10日は観音菩薩の大功徳日~




四万六千日は、46000日分参拝したことと同じ功徳が得られるという観音菩薩の特別な縁日。

鎌倉の四万六千日は8月10日。

朝早くからお詣りをすることから、「朝詣り」ともいわれてきました。



8月10日の長谷寺は、朝4時から開門、観音堂では8時まで読経が行われます。

参拝すると本尊の「御身影」を授けて頂けます。




鎌倉の四万六千日


四万六千日・ほおずき市


長谷寺








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ぼんぼり祭
8月6日~9日


黒地蔵盆
8月10日


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夏だ!休みだ!鎌倉だ!


夏の江ノ島


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本家菊屋の御城之口餅・鶯餅~大和郡山城~


御城之口餅
(出典:農林水産省)


大和郡山城の門前にある本家菊屋は、豊臣秀長が城主だった頃からある老舗。

名物の「御城之口餅」は豊臣秀吉に献上されたという菓子。



NHK 大河ドラマ「豊臣兄弟!」
限定パッケージ



大和郡山城


大納言塚


豊臣秀長








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源義経をめぐる京都

歴史めぐり源頼朝


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2025年7月28日月曜日

南都焼討の罪で処刑された平重衡の墓


平重衡は、平清盛の五男。

1180年(治承4年)12月12日、諸国の源氏に平家打倒の令旨を発した以仁王を匿った園城寺を焼き払い、12月28日には、東大寺興福寺の反平家勢力を一掃するため、南都を焼討ちしたことで知られる武将。

1184年(寿永3年)2月7日の一ノ谷の戦いで捕らえられ、一時、鎌倉の源頼朝のもとにいましたが、1185年(元暦2年)、平家が壇ノ浦で滅亡すると南都衆徒に引き渡されて、6月23日、木津川で斬首されました。



京都の日野にある平重衡の墓は、妻の藤原輔子が築いたもの。

木津川で斬首された重衡の首は奈良の般若寺に晒されましたが、輔子は東大寺再興の大勧進だった重源に請うて首をもらい受け、捨てられていた胴体とともに日野の法界寺で荼毘に付し、灰塚を築いて、骨は高野山に納めたのだと伝えられています。

重衡の供養の後、輔子は大原の寂光院に隠棲していた建礼門院に仕えて余生を過ごしたのだといいます。

建礼門院は重衡の姉。


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教恩寺

鎌倉の教恩寺の本尊・阿弥陀如来像は、源頼朝が「一族の冥福を祈るように」と重衡に与えたものだと伝えられています。




南都焼討


一ノ谷の戦い

屋島の戦い

壇ノ浦の戦い


南都焼討と東大寺の再興 ~重源と源頼朝~








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