別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2022年2月21日月曜日

房総で再挙した源頼朝~鎌倉殿の13人第七話~


安房国へ渡った頼朝は、下総国へ進軍。

千葉常胤が参陣。

続いて、義時が説得に成功した上総国の上総広常が二万騎を率いて参陣。

広常のところには梶原景時も来ていたようですが・・・


時政は武田信義を味方につけるため再び甲斐国へ。


頼朝の異母弟で醍醐寺に入っていた全成も駆け付けてきています。

奥州平泉の藤原秀衡に庇護されていた義経も出発したようです。


鎌倉入りが近づいてきました。


都では平清盛が直ちに追討するよう命じました。

次回は、義時も甲斐国へ向かうようです。


さて、義時の初恋の人八重姫は、伊東館に閉じ込められてしまったようですが、どうなってしまうのでしょう・・・




(千葉市:亥鼻城址)

亥鼻城は千葉常胤の居城。


君待橋の碑

君待橋は、常胤が頼朝を出迎えた所と伝えられています。


千葉神社

千葉神社は、千葉氏の守護神・妙見菩薩を本尊とする寺院が始まり。

頼朝は、常胤の案内で参拝したのだといいます。




玉前神社は、上総国の一宮。

1182年(治承6年)7月、上総広常玉前神社に鎧​を奉納。

そこには、源頼朝の祈願成就と東国泰平を祈った願文が結び付けてありました。




源頼朝挙兵

源頼朝鎌倉入り







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2022年2月20日日曜日

後鳥羽上皇(法皇)の崩御と祟りの噂


後鳥羽天皇


後鳥羽天皇は、第82代天皇。

父は高倉天皇、母は坊門殖子。

安徳天皇は異母兄。

源実朝の妻坊門信子は従兄妹にあたる。







平家が安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちしてしまったことから、神器のないままに即位した天皇として知られています。

また、和歌や蹴鞠に秀でていたことでも知られ、『新古今和歌集』を編纂させています。


1198年(建久9年)、土御門天皇に譲位して院政を開始。

1221年(承久3年)、北条義時追討の院宣を下して挙兵しますが、大敗して隠岐に流されました(承久の乱)。


1239年(延応元年)2月20日、配所にて崩御。


この年の12月には三浦義村が急死、翌年1月には北条時房が急死。

この二人には、承久の乱の際、後鳥羽上皇から義時追討の院宣が下されていました。

そのため、後鳥羽上皇の祟りと噂されたようです。


1242年(仁治3年)6月15日には、三代執権の北条泰時が亡くなりますが・・・

泰時の父義時が亡くなったのが6月13日

北条政子が亡くなったのが7月11日

大江広元が亡くなったのが6月10日

承久の乱で朝廷軍が敗れ、後鳥羽上皇が配流された6月・7月に集中していたことから、後鳥羽上皇の怨霊による祟りではないかという噂が流れたのだとか・・・。




後鳥羽上皇






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承久の乱

北条政子の言葉~承久の乱~

宇治川の戦い~承久の乱~

瀬田の合戦~承久の乱~

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2022年2月19日土曜日

一ノ谷での平家の敗北は、後白河法皇の謀略か?


1184年(寿永3年)2月7日、一ノ谷の戦いに敗れ、多くの有能な武将を失った平家。

南都焼討で知られ、墨俣川の戦いでは源行家を、水島の戦いでは木曽義仲を破るなどの活躍をした平重衡も捕らえられました。


『吾妻鏡』によると・・・


2月15日、安徳天皇三種の神器の返還を願う後白河法皇は、重衡を介して、平家の総大将・平宗盛にその旨を知らせます。

※平家は安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちしていました。


2月20日、一ノ谷の戦い後、屋島へ逃れていた宗盛からその返信が届きました。

宗盛は後白河法皇の要望に理解を示した上で次のように述べています。・・・、


「昨年7月、平家一門が都落ちして西国へ向かっている途中で、京都に戻るようにとの院宣が下されました。

その時は、京都に不穏な情報があったので、戻ることが叶わず、先へ進みました。

その後、京都も静かで穏やかになったという情報を得たので、昨年10月、鎮西を出発して帰ろうとしたところ、閏10月1日、備中国水島で院宣を携えているという木曽義仲安徳天皇の還御を邪魔されました。

凶賊・木曽義仲を誅伐(水島の戦い)した後は、讃岐国の屋島に滞在し、今年1月26日、摂津国の一ノ谷に移り、法皇さまにこれまでの経緯をお知らせしています。

2月4日、亡き父・平清盛の三回忌供養を行おうと思いましたが、船を下りることができず、輪田の海辺を巡っていると、2月6日、藤原親信(修理権大夫)から手紙が送られてきました。

その内容は、

和平協議に関するもので、2月8日に藤原親信が正式な使いとして出向くので、安徳天皇のお答えを賜り帰るまでは、合戦をしないように。

この事は、鎌倉軍(源氏軍)にも伝えてある。

とのことでしたので、

法皇さまの使者を待っていたところ、2月7日、源氏軍に一ノ谷を攻撃されました。

平家としては、法皇さまからの「合戦をするな」との命がありましたので、反撃するわけにも行かずに退くと、源氏軍が勝に乗じて襲いかかってきたので合戦となってしまい、多くの兵を失いました。

和平協議の件、何よりも不審に思っております。

院宣を源氏軍には伝えていなかったのか?、それとも源氏軍が院宣を無視したのか?

あるいは、平家軍に油断をさせる計略だったのか?」


宗盛は、この他にも、いろいろと綴っていたようですが、

言いたいことは、平家は後白河法皇の命に従って安徳天皇三種の神器を返すつもりで行動していたにもかかわらず、一方で後白河法皇が源氏に平家追討を命じていたため、実現できなかったということのようです。

「後白河法皇に騙された」というところでしょうか。

参考までに・・・

宗盛は、平家の都落ちについても綴っています。

それによると、都落ちは木曽義仲に攻められたからではなく、後白河法皇が比叡山へ逃げてしまったためで、平家としては西国へ落ちるしかなかったとのだとか。




一ノ谷古戦場






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一ノ谷の戦い

屋島の戦い

壇ノ浦の戦い


源義経

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2022年2月18日金曜日

北条義時の出生伝説


『古今著聞集』によると・・・

ある人が石清水八幡宮に参って一晩籠ったときの事。

夢の中で、御殿の戸が開き、神が気品ある声で「武内宿禰」(たけしうちのすくね)を呼んだ。

高齢白髪の人物が神前に進み出ると、再び気品のある声で、

「世の中が乱れようとしている。

しばらく時政の子となって世を治めよ」

と命じ、老翁がそれを承諾したところで夢から覚めた。

参籠者は、北条義時が武内宿禰の生まれ変わりだと考えたのだという・・・


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

神功皇后と武内宿禰、応神天皇


石清水八幡宮の祭神は、八幡神と呼ばれた応神天皇。

応神天皇の母は神功皇后。

武内宿禰は神功皇后を支えた忠臣。

※写真は腰越天王祭の山車人形


石清水八幡宮
(京都)

石清水八幡宮は源氏の氏神。

武神と言われた源義家は、石清水八幡宮の神前で元服したことから「八幡太郎」と呼ばれました。

源頼朝が武家の都の中心に据えた鶴岡八幡宮は、石清水八幡宮を勧請して創建された社。







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千葉常胤騎馬像


千葉常胤の居城だった亥鼻城址に建つ騎馬像。








千葉常胤は、1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵に参じ、鎌倉入りを進言した武将として知られています。






千葉常胤


源頼朝挙兵

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