別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2021年10月10日日曜日

絵筆塚祭~鎌倉:荏柄天神社2021/10/10~




荏柄天神社絵筆塚祭は、「かっぱ筆塚」を建立した漫画家清水崑を偲ぶ祭。

毎年10月に行われています。



参道には、有名漫画家から寄せられた漫画絵が行灯に仕立てられて並びます。





寄せ書き




古筆焼納の儀

参列の漫画家が永年愛用した古筆を焚きあげます。



寄せ書きも焚きあげられます。










荏柄天神社






絵筆塚祭






☆ ☆ ☆ ☆ ☆


お十夜

運慶の諸仏公開

宝物風入

旧川喜多邸別邸


鎌倉の紅葉


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2021年10月9日土曜日

源頼朝の御所の造営


1180年(治承4年)10月9日、源頼朝の御所の造営が始まりました。

工事を奉行したのは大庭景義

まずは、新造の建物ではなく、山ノ内にあった首藤兼道の旧宅が移築されています。

安倍晴明の護符の御加護で「200年もの間火災にも遭わずにいた」ということから移築されたとのだとか。

首藤兼道邸の移築は10月15日に完了しています。

ただ、その場所がどこだったのかは定かではありません。



首藤邸の移築工事と併行して、大倉の地に新造建物の建築も行われ、12月12日に完成しています。


晴明神社
(京都:晴明神社)

安倍晴明は平安時代の陰陽師。

平安以降、鎌倉時代から明治に至るまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖。

陰陽師は、星の動きで吉凶を予測し、呪術をつかっての厄除けや怨霊を鎮める役職でした。

晴明神社は、晴明を祀るため、屋敷跡に建てられました。


(北鎌倉)

伝説によると、山ノ内には安倍晴明の屋敷があったのだとか・・・







☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2022年の大河ドラマ
鎌倉殿の13人


特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編

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歴史めぐり源頼朝


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2021年10月8日金曜日

かっぱ筆塚と絵筆塚と絵筆の祭~鎌倉:荏柄天神社~




荏柄天神社「かっぱ筆塚」は、漫画家の清水崑が鎌倉の古道具屋で購入して愛用していた絵筆を納めたもので、1971年(昭和46年)に建てられました。

除幕式には、作家の小林秀雄・永井龍男、漫画家の横山隆一・那須良輔・小島功など80名が参列したのだそうです。


かっぱ筆塚


かっぱ筆塚

筆を担いだ河童の絵が彫られています。

清水崑の河童は、黄桜酒造のキャラクターとして採用されました。


かっぱ筆塚

裏側に彫られている「かっぱ筆塚」の文字は、作家川端康成の揮毫。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


~清水崑のかっぱが名の由来~



かっぱを描き続けた清水崑。

1953年(昭和28年)から「かっぱ天国」が週刊朝日に連載されると、1955年(昭和30年)には、黄桜酒造のキャラクターとして採用されます。

同年、カルビーでは、清水崑がキャラクターを描いた「かっぱあられ」を発売。

1964年(昭和39年)には、「かっぱえびせん」が販売されますが、その名は「かっぱあられ」に由来しています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


~「かっぱ筆塚」の祭~

「かっぱ筆塚」が建立されると、絵筆の祭りが行われるようになりますが、1974年(昭和49年)に清水崑が他界すると、その祭りも途絶えがちになっていったそうです。

鎌倉に居を構えていた横山隆一は、清水崑の遺志を汲み、新たに筆塚を建てて、絵筆の祭りを鎌倉の年中行事としようと計画します。

これに牧野圭一や加藤芳郎などが賛同。

日本漫画家協会に所属する漫画家たちが、それぞれのキャラクターを河童で表現したレリーフが作成されます。

そして、1989年(平成元年)、かっぱ筆塚の後方に、横山隆一がデザインしたブロンズ製の絵筆塚が建立され、漫画家たちが描いたレリーフが飾られました。

絵筆塚は、鉛筆をかたどったもので、高さ3メートル、直径1メートル。

10月22日、清水崑夫人、横山隆一、小島功をはじめとする関係者200名近くが参列して除幕式が行われました。

塚の基部には、当時の宮司白井永二、横山隆一、牧野圭一によって5枚の絵皿が納められています。


絵筆塚

絵筆塚


絵筆塚の建立以来、毎年10月に行われているのが絵筆塚祭

絵筆塚祭には、漫画家により寄せられた漫画絵の行灯が掲揚されます。

カッパ絵コンクールも開催され、子どもから大人まで、自分なりのカッパを描いた作品が拝殿に展示されます。


2021年の絵筆塚祭は10月9日(土)・10日(日)。



絵筆塚祭



荏柄天神社

荏柄天神社






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お十夜

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養和の飢饉と源頼朝


1180年(治承4年)は、畿内を中心に北陸、西国では旱魃による農産物被害が甚大でした。

鴨長明は『方丈記』に、春・夏は日照りで、秋は大風と洪水で五穀がことごとく実らず、2年間、食べ物がない状況で、仁和寺の僧が数がわからないほどの死者の額に「阿」の字を書いて供養していたと記しています。


『餓鬼草子』
(奈良国立博物館)



☆ ☆ ☆ ☆ ☆

1180年(治承4年)8月17日に挙兵した源頼朝は、8月24日、石橋山で大敗したものの、安房に渡って軍勢を整え、10月6日(7日)には鎌倉に入り、10月20日には富士川の戦いで平氏軍を敗走させます。

敗れた頼朝が1ヶ月ちょっとの短期間で再起できたのは、各国の目代を滅ぼして平氏への連絡網を遮断したことが大きな理由ともいわれていますが、もう一つに西国の食糧難があったのではないでしょうか。

富士川の戦いで頼朝は敗走した平氏軍を追って一気に上洛してしまおうと考えたようですが、上総広常千葉常胤三浦義澄らに関東の統一が先と主張されて諦めたと『吾妻鏡』には記録されています。

しかし、すでに畿内・西国の食料不足は頼朝も知っていたでしょうし、攻め入ろうにも兵糧の調達ができないことは分かっていたはずです。

平氏軍の敗走にしても、兵糧不足で兵士の士気が上がらなかったのだという説もあります。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

その後は反平氏の行動が拡大。

平氏軍は12月に平清房が延暦寺の堂舎を焼き、平重衡が東大寺興福寺を焼亡させ、翌年4月には墨俣の戦いで勝利しますが、それ以後は戦線を維持するのが精一杯で疲弊していったようです。

1183年(寿永2年)、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破った木曽義仲が入京しますが、平氏が敗れた要因には飢饉による兵糧不足もあったのでしょう。

そして、食糧難の都では、大量の兵が入ってきたことで、略奪行為が横行したそうです。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

その間、頼朝は東国の整備に専念していたようです。

1180年(治承4年)10月の富士川の戦いの翌月には、常陸の佐竹秀義を攻め(佐竹征伐)、さらに、足利氏と新田氏を帰属させて、関東を支配下に入れました。

12月には御所が完成。

頼朝は鎌倉の主に推戴されています。

翌1181年(養和元年)には仮宮だった鶴岡八幡宮に新たな社が造営されました。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

そして1183年(寿永2年)10月14日、木曽義仲の横行に困った後白河法皇は「東海・東山両道の国衙領・荘園の年貢は国司・本所のもとに進上せよ。従わぬ場合は頼朝に連絡して命令を実行させよ」 という内容の宣旨を交付しました(寿永二年十月宣旨)。

この宣旨によって、東国における頼朝の支配権が承認されました(これより前の10月9日には、従五位下の位に復帰しています。)。

翌11月には、寿永二年十月宣旨に基づく年貢納入を理由に源義経を近江国に派遣し、木曽義仲の動向を探らせています。

おそらく、この頃には飢饉の影響もだいぶ少なくなってきたのかと思われます。



源頼朝挙兵


歴史めぐり源頼朝







☆ ☆ ☆ ☆ ☆

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2021年10月7日木曜日

以仁王の令旨は文覚が頼朝に届けたという噂!~伝説の八坂不動明王~


源頼朝が流人生活を送っていた伊豆国

そこには怪僧と呼ばれた文覚も流されてきました。

後白河法皇神護寺再興の訴えを起こしたことで、法皇の怒りを買ってしまったのだそうです。

文覚上人荒行像
(鎌倉:成就院)

文覚は、元は遠藤盛遠といい、北面の武士として朝廷に仕えていました。

同僚の渡辺渡の妻・袈裟御前に懸想をし、渡を殺してしまおうとしたところ、誤って袈裟御前を殺してしまい僧になったという人物。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

伊豆国へ流された文覚は、頼朝が流されていたという蛭ヶ小島に近い奈古谷に庵を結んだのだといいます。

毘沙門堂
(伊豆の国市)

毘沙門堂文覚が庵を結んだという場所に建つ堂で、頼朝はここで源氏再興の挙兵を勧められたのだといいます。

そして、1180年(治承4年)がやってきます。

京都では平清盛の人気は急降下。

そんな時、赦免されて京都に帰っていた文覚が、再び伊豆の頼朝の前に現れます。

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伝説によると・・・

文覚は不動明王像を担いでいました。

この不動明王像は、八坂の塔が傾いてしまったときに、浄蔵貴所が祈祷の本尊としたもので、長く神護寺に置かれていたのだといいます。

文覚はその不動明王像に以仁王の令旨を隠して頼朝に届けたのだとか・・・

さて、その不動明王像は今どこにあるのか???

鎌倉の浄光明寺不動堂に祀られている不動明王像は「八坂不動明王」と呼ばれています。


浄光明寺不動堂

浄光明寺源頼朝文覚に命じて建てさせた堂がそのはじまりとも言われています。

八坂不動明王は大晦日の晩、除夜の鐘が撞かれる頃に開帳されます。



948年(天暦2年)、八坂の塔は皇居の方へ傾いてしまったのだそうです。

それを法力で戻したのが浄蔵貴所だったのだとか。


神護寺

神護寺は弘法大師ゆかりの寺。

平安時代後期には衰退してしまいますが、源頼朝の助勢を受けながら文覚が再興しました。







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