別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2024年9月6日金曜日

2024甘縄神明神社の例大祭~鎌倉最古の社の祭礼~




ぼんぼり祭
9月7日(土)~13日(金)
18:00~20:00

民謡踊り大会・夜店
9月12日(木)・13日(金)
18:00~20:00

万灯神輿
9月7日(土)
18:00~

神幸祭
9月8日(日)
12:00~

例大祭式典
9月14日(土)
10:00~




甘縄神明神社

甘縄神明神社は、藤原鎌足の子孫・染屋時忠の創建とされ、源頼義源義家源頼朝北条政子源実朝が信仰した社。




甘縄神明神社例大祭


甘縄神明神社









☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鶴岡八幡宮例大祭


浜降式:鶴岡八幡宮例大祭

神幸祭:鶴岡八幡宮例大祭

流鏑馬


御霊神社例大祭

面掛行列


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2024年9月5日木曜日

円覚寺の童子に贈るための絵画が重要文化財に。~紙本墨画淡彩披錦斎図~


紙本墨画淡彩披錦斎図
(根津美術館)


2024年(令和6年)8月27日、根津美術館所蔵の「紙本墨画淡彩披錦斎図」が重要文化財に指定されました。

「紙本墨画淡彩披錦斎図」は、爛漫の花をつけた木々に囲まれた一棟の書斎が描かれたもの(1464年(寛正5年))。

鎌倉の円覚寺の梁宗という童子を慕う僧が、童子に贈るため、夢に見た書斎を画に描かせ、画中の書斎の命名と着賛(賛文を書くこと)を依頼したものなのだとか。

書斎を披錦斎と名づけた鎌倉の禅僧・宗甫紹鏡他6名の序と賛があります。




円覚寺は、1282年(弘安5年)、八代執権北条時宗が開山に宋の禅僧無学祖元を招いて建立した寺。

宗甫紹鏡は、十五世夢窓疎石の系統。

第百四十五世の芳林中恩は宗甫紹鏡の弟子らしい。








☆ ☆ ☆ ☆ ☆


八代執権北条時宗


円覚寺開山忌


円覚寺舎利殿


円覚寺


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2024年9月3日火曜日

国宝:金峯山経塚出土紺紙金字経~藤原道長直筆の経巻~


2024年(令和6年)8月27日、藤原道長と曾孫の師通直筆の「金峯山経塚出土紺紙金字経」(きんぷせんきょうづかしゅつどこんしきんじきょう)が国宝に指定されました。

山上ヶ岳の大峯山寺周辺の金峯山経塚から出土したもので、国宝に指定されたのは金峯神社の79紙と金峯山寺の200紙。


★藤原道長筆の法華経巻一、四、五、六、七、八断簡(巻五、六に寛弘4年の奥書)。

★藤原道長筆の観普賢経断簡(寛弘4年の奥書)

★藤原道長筆の阿弥陀経断簡(寛弘4年の奥書)

★藤原師通筆の法華経巻一、二、四、五、六、七、八断簡

★藤原師通筆の無量義経断簡

★藤原師通筆の観普賢経断簡



藤原道長筆 観普賢経巻末
(文化庁資料より)

文化庁が発表した文化審議会の答申の資料の中にあったもので、長徳四年奥書があります。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


藤原道長は、1007年(寛弘4年)に金峯山に参詣して、「金銅藤原道長経筒」に自筆の法華経など15巻を収めて埋納。

経筒の銘文から、法華経等10巻は998年(長徳4年)に書写し、残る5巻は寛弘4年に書写したものであることが判っています。

道長の曾孫・師通は、1088年(寛治2年)に金峯山に詣でて自筆の法華経等12巻を埋経しました。


金峯神社

道長が経を収めた「金銅藤原道長経筒」は、金峯神社の所蔵で国宝に指定されています(京都国立博物館に寄託)。

📎金銅藤原道長経筒と道長の願い



金峯山寺蔵王堂

金峯山寺は、修験道の開祖・役行者(役小角)が、山上ヶ岳と吉野山に蔵王権現を祀ったことに始まります。

現在は山上ヶ岳(現在の大峯山寺)と吉野山(現在の金峯山寺)は別個の寺院になっていますが、近世までは「山上の蔵王堂」・「山下の蔵王堂」と呼ばれ、金峯山寺とは本来2つの蔵王堂とその関連施設の総称でした。

金峯山経塚出土紺紙金字経の金峯山寺分の大半は、2015年(平成27年)に金峯山寺本坊で発見されたもの。


📎藤原道長の御嶽詣~彰子の男児出産を願っての金峯山参詣か?~




吉野山



藤原道長

藤原彰子


一条天皇









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


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藤原道長の御嶽詣~彰子の男児出産を願っての金峯山参詣か?~


1007年(寛弘4年)8月11日、藤原道長は自ら書写した経を吉野の金峯山(山上の蔵王堂)に埋納しています。

当時、道長は様々な病に苦しんでいたようですので、厄除とも考えられますが・・・

999年(長保元年)に12歳で一条天皇の女御として入内して中宮となった娘の彰子は20歳になっていました。




彰子の皇子出産を願って?

一条天皇には彰子が入内した年に藤原定子が生んだ第一皇子の敦康親王がいましたが、定子が崩御した後は彰子が養母となって育てていました。

敦康親王は彰子に愛情をもって養育され、賢い少年に成長します。

道長も後見役となり、源倫子(彰子の母)も育児に関わっていたようですが、彰子が皇子を産むことができなかった場合に備えて奉仕していたようです。

敦康親王を簡単に東宮(皇太子)にするわけにはいかない道長は、彰子の皇子出産を願って金峯山参詣(御嶽詣)を行ったのかもしれません。

ただ・・・藤原道長が埋納した「金銅藤原道長経筒」に記された願文には・・・

📎金銅藤原道長経筒と道長の願い


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


~金峯山は弥勒の浄土~


吉野山

金峯山は、吉野山から山上ヶ岳に至る地。

道長の時代は、末法思想が流行しはじめていた時代でした。

末法思想は、仏教の教えが廃れ、救われることのない世がくるというもの。

そういう思想の中で広がったのが、弥勒菩薩が現れて救ってくれるという弥勒信仰。

平安時代、金峯山は弥勒の浄土とされていたようです。

また、金峯山寺の本尊・蔵王権現は、釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩の三尊が合体したものとされています。

道長は弥勒菩薩を信仰していたといわれ、弥勒菩薩を本尊とする園城寺(三井寺)の金堂には、道長が奉納したと伝えられる弥勒菩薩像も安置されています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


~道長の金峯山参詣~

道長は寛弘4年閏5月から室町の源高雅の邸宅で御嶽精進を始めます。

御嶽精進とは、金峯山参詣の前に50日から100日の間、身を清めること。

この間、巨大な磨崖仏(弥勒菩薩)を本尊とする笠置寺や祇園社賀茂社にも参詣しているようです。

そして、8月2日、長男・頼通源俊賢らとともに金峯山を参拝するため京都を出発。

⽯清⽔⼋幡宮から興福寺、⼤安寺を経て吉野に⼊り、8⽉10⽇に⾦峯⼭上に到着。

8月11日には法要を行い、998年(長徳4年)に金峯山に奉納するため自らが書写した「法華経」・「無量義経」・「阿弥陀経」・「弥勒経」、1007年(寛弘4年)に書写した「阿弥陀経」・「弥勒経」を山上ヶ岳の蔵王堂(現在の大峯山寺)に埋納しました。

道長は⻑徳4年に⾦峯⼭参詣を計画ししていたようですが、当時は伝染病が流⾏していたため、やむを得ず中⽌したのだといいます。

⻑徳4年に書写したものは、その時のもののようです。



金峯神社

道長は経筒に経巻を収めて大峯山寺付近の経塚に埋納したのだといいます。

金峯神社蔵の「金銅藤原道長経筒」は、1952年(昭和27年)、国宝に指定され、京都国立博物館に寄託されています。

📎金銅藤原道長経筒と道長の願い



金峯山寺蔵王堂

金峯山寺は、修験道の開祖・役行者(役小角)が、山上ヶ岳と吉野山に蔵王権現を祀ったことに始まります。

現在は山上ヶ岳(現在の大峯山寺)と吉野山(現在の金峯山寺)は別個の寺院になっていますが、近世までは「山上の蔵王堂」・「山下の蔵王堂」と呼ばれ、金峯山寺とは本来2つの蔵王堂とその関連施設の総称でした。

2024年(令和6年)8月27日、金峯神社金峯山寺が所有する「金峯山経塚出土紺紙金字経」が国宝に指定されています。


📎国宝に指定された藤原道長直筆の経巻~吉野山:金峯神社・金峯山寺~




吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)は、清少納言の『枕草子』に「みこもりの神」として登場する社。

金峯神社金峯山寺の中間あたりに鎮座します。

守明神とも呼ばれ、「みくまり」が訛って「みこもり」となり、子授けの神としての信仰を集めました。

道長の『御堂関白記』には子守明神として登場。

御嶽詣を行った道長も彰子の男児出産を祈願したのかも。


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~道長暗殺計画~

藤原実資の『小右記』によると、藤原伊周隆家兄弟が御嶽詣に出発した道長の暗殺を計画していたという噂が流れていたのだといいます。

平致頼に暗殺を命じたという噂だったようですが、8月14日に道長は無事帰京しています。


📎失意のうちに死去した藤原伊周~道長の暗殺計画・呪詛そして最期~


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~敦成親王の誕生~

御嶽詣の翌年、彰子の懐妊が判明。

9月11日、彰子は土御門殿で敦成親王(後一条天皇)を出産しています。

人々は「金峯山の御霊験」と噂したのだとか。

そして、1011年(寛弘8年)、一条天皇三条天皇に譲位。

一条天皇は定子が産んだ第一皇子の敦康親王を東宮(皇太子)にと望んでいましたが・・・

藤原行成彰子が産んだ第二皇子の敦成親王を立てるよう進言されて諦めたのだといわれています。

道長にとっては思いどおりの結果ですが、第一皇子が皇太子になれないのは異例のこと。

彰子は、敦康親王を無視して敦成親王を皇太子にしようとする道長に対して激怒していたのだと伝えられています。





藤原道長

藤原彰子


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