別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2024年1月23日火曜日

式部丞・六位蔵人になった藤原為時だったが、寛和の変で・・・


984年(永観2年)、花山天皇が即位。

紫式部の父藤原為時は、東宮時代に近侍していた関係で「式部丞・六位蔵人」に任じられます。

式部丞(しきぶのじょう)は、大学寮を管掌していた式部省の官人。

古代日本の官庁では長官・次官・判官・主典の四等級があって、式部丞は3番目の判官。

六位の者が任命されました。

蔵人(くろうど)は、令外官の一つで天皇の秘書的役割を果たしました。


しかし・・・

花山天皇は、986年(寛和2年)、藤原兼家道兼父子の謀により山科の元慶寺で出家してしまいます(寛和の変)。

為時は官職を失い、996年(長徳2年)に越前守となるまで官職のない状況(散位)が続くことになります。





986年(寛和2年)6月23日、花山天皇藤原兼家道兼父子の策謀により元慶寺で出家(寛和の変)。

前年に寵愛していた女御の藤原忯子を亡くし、一時的に出家を考えてしまったことに付け込まれたらしい。




長い間、官職のなかった為時は、996年(長徳2年)正月28日、越前守に叙任されます。

初めは播磨守だったようですが、一条天皇漢詩を奏上して越前守にしてもらったのだとか。

この年の夏ごろ越前に下向。

紫式部も同行していました。

越前市武生の紫式部公園は、紫式部の越前下向を記念して整備された公園。




紫式部と越前国


紫式部の越前下向









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


紫式部


源氏物語

光源氏


琵琶湖で紫式部・源氏物語

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源氏物語 須磨・明石

宇治十帖


藤原道長

藤原彰子



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2024年1月22日月曜日

藤原公任の面を踏んでやると言い放った藤原道長


藤原公任は、漢詩・和歌・音楽の才のあった公卿でした。

藤原兼家は「我が子たちは影さえ踏むことが出来ない」と嘆いたそうです。

長男・道隆と三男・道兼は黙っていましたが、五男の道長は・・・

「影を踏まずに面を踏んでやる」

と言い放ったのだそうです。


📎面を踏む~才能あふれる公任と道隆・道兼・道長の三兄弟~









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紫式部


源氏物語

光源氏


紫式部と越前国


紫式部の越前下向


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まひろが参加した土御門殿の偏つぎ~光る君へ~


偏つぎ


大河ドラマ「光る君へ」第3回で、まひろ(紫式部)は土御門殿で開かれている和歌の名人・赤染衛門の集いに参加することに。

そこで「偏つぎ」を体験。


偏つぎは、漢字の知識を競い合った遊び。

漢字の旁(つくり)に偏(へん)を付けて文字を完成させるもの。

紫式部は、幼い頃より漢詩をすぐに覚えてしまうので、父為時は「男に生まれていれば・・・」と嘆いていたそうです。

そんな紫式部ですから、結果は大勝。


紫式部の漢詩の知識は、為時に同行して越前国に下向した時にも役立ったでしょう。

当時、敦賀の気比の松原付近には宋の商人・朱仁聡らが宿泊していたそうです。


一条天皇の中宮・藤原彰子に仕えていたときには、彰子に白居易の新楽府(漢詩)の講義をしています。




土御門殿は、源倫子の父・源雅信が建設した邸宅。

のちに倫子と結婚した藤原道長が継承。

道長倫子を結婚させたのは雅信の正室・藤原穆子だったのだと伝えられています。



越前市の紫式部公園は 紫式部が越前国に下向したことを記念して整備されました。



紫式部の漢学の知識は、一条天皇からも評価されています。 









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紫式部


源氏物語

光源氏


紫式部と越前国


紫式部の越前下向


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道長と公任と斉信の女性談義~源氏物語の雨夜の品定めと光る君へ~


大河ドラマ「光る君へ」第3回で、藤原道長藤原公任藤原斉信と女性談義。

これは、『源氏物語』~帚木の巻~の「雨夜の品定め」と似ている場面でした。


ある五月雨の夜、光源氏頭中将・左馬頭・藤式部丞の4人で女性談義。

中流階級の女性に関心をもった光源氏は・・・

翌日、方違えのため訪れた紀伊守邸で、伊予介の後妻・空蝉のことを聞き、深夜、空蝉の寝所に忍び込む・・・


空蝉は上流貴族の娘でしたが、父の死で後ろ盾を失い、宮仕えすることもできす中流貴族の伊予介の後妻となっていました。

光源氏に失恋を経験させた女性です。




梨木神社は、空蝉が住んでいた中川の家の跡ともいわれています。

空蝉のモデルは紫式部自身とも。




梨木神社は、紫式部の邸跡・蘆山寺門前の寺町通の反対側にあります。









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源頼朝の歌~多賀城の壺の石ぶみ・鶴岡八幡宮の献詠披講式~


「陸奥の いはで忍は えぞ知らぬ かき尽くしてよ 壷のいしぶみ」

この歌は、源頼朝慈円に贈った歌。

後鳥羽上皇の命により編纂された『新古今和歌集』に載せられています。

「壺の石ぶみ」は、頼朝が奥州征伐の際に立ち寄った多賀城跡にある石碑「壺碑」ともいわれています(諸説あり。)。



多賀城碑は、「壺碑」(つぼのいしぶみ)とも呼ばれ、松尾芭蕉の『おくのほそ道』にも登場します。



鶴岡八幡宮献詠披講式は、源頼朝が「管弦詠歌の儀」を行ったという故事にちなんで始められた歌会。

2024年は3月27日(水)に行われます。




献詠披講式


金槐和歌集


光源氏:多賀城・塩竃・名取


鶴岡八幡宮


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