【問】
1213年(建保元)、北条義時の挑発によって兵を挙げ、一族とともに由比ヶ浜で滅亡した人物はだれか。
(第19回3級)
1213年(建暦3年)に起こったのは和田合戦。
この年の2月の泉親衡の謀反で、和田義盛の甥胤長が処罰されたことで、義盛と北条義時との関係が悪化。
義盛は三浦義村や横山氏を味方につけて、5月2日、北条氏打倒の兵を挙げますが・・・
義村に裏切られるなど兵力不足の義盛は、源実朝を擁して兵を集めた義時に敗れ、5月3日、由比ヶ浜で最期を遂げました。
由比ヶ浜の和田塚は、和田合戦の戦死者を葬った所と伝えられています。
問題には「北条義時に挑発よって兵を挙げ」と書かれています。
義時は義盛の甥が泉親衡の謀反に関わっていたのを機に挑発を始めたようですが・・・
いつごろから義盛を滅ぼそうと考えていたのでしょう?
『吾妻鏡』によると・・・
和田合戦が起こる2年半ほど前の1210年(承元4年)11月21日明け方、駿河国の建穂寺の鎮守馬鳴大明神から酉年(2013年)に戦があるというお告げがあったそうです。
同日、源実朝も夢の中でお告げを聞いたのだとか。
この前年の5月、義盛は上総国司(上総介)への任官を望みますが、翌年6月、上総国司に任命されたのは藤原秀康でした。
建穂寺の馬鳴大明神の予告は、それから5ヶ月後。
義盛が上総国司任官を望んだのは、義時に対抗できる地位が欲しかったからといわれていますが、
『吾妻鏡』の記述は、 「義盛がこの頃から反乱を起こそうと考えていたこと」、
あるいは、
「義時がこの頃から義盛を滅ぼそうと考えていたこと」
を伝えているのかもしれません。
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泉親衡(和泉小次郎親衡)は、二代将軍源頼家の遺児千寿丸を擁立し、北条義時を討とうと企て、和田合戦のきっかけを作った武将ですが・・・
京の刀工・三条宗近が祇園社(現在の八坂神社)に納めた長刀を懇望して愛用していたのだといいます。
その長刀は、祇園祭の前祭巡行の先頭を行く長刀鉾に飾られるようになりました。
そのため、長刀鉾の天王台には、小舟を肩に担ぎ大長刀を持った和泉小次郎親衡(泉親衡)の像が置かれています。
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