別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2024年5月7日火曜日

高階貴子の先祖は在原業平?


関白・藤原道隆の正室・高階貴子の曾祖父・高階師尚は、恬子内親王と在原業平の子という伝承があります。


『伊勢物語』に登場する「斎宮なりける人」は恬子内親王といわれ、朝廷より派遣された「狩の使」(鳥獣を得るため狩りをした勅使)は在原業平と考えられていますが・・・

二人はお互いに惹かれあって一夜をともにしています。

ただ物語の中では、逢瀬を遂げることはできなかったのだとか。

しかし・・・

恬子内親王は懐妊し、生まれた子は高階師尚という話が流布されるようになってしまったのだといいます。


のちに、一条天皇は譲位に当たって、皇后の藤原定子が生んだ第一皇子の敦康親王を東宮(皇太子)にと望みますが・・・

藤原行成に中宮・藤原彰子が生んだ第二皇子の敦成親王(のちの後一条天皇)を立てるよう進言されて諦めたのだといいます。

行成の進言の内容は、

「定子の母・高階貴子が師尚の子孫のため、伊勢神宮に憚るところがある」

というものだったらしい。




藤原定子


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六波羅陥落~鎌倉幕府滅亡へ~


六波羅探題跡
(六波羅蜜寺)

六波羅探題は、1221年(承久3年)の承久の乱後に設置された鎌倉幕府の出先機関。


1333年(元弘3年)2月、討幕計画が露見して隠岐に流されていた後醍醐天皇が隠岐を脱出して船上山で挙兵。

3月下旬、幕府は名越高家と足利高氏(尊氏)を鎮圧に向かわせますが、4月27日、名越高家は赤松則村と戦った久我畷の戦いで討死。

両軍の戦いを静観していた足利高氏は、自らの領地だった丹波篠村へと向かい反幕の挙兵をします。

そして、5月7日、六波羅探題を攻撃して滅亡させました。


『太平記』によると・・・

高氏は病いを患っていた自分に度重なる派兵の催促をしてきた北条高時に憤っていたのだとか・・・




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2024年5月5日日曜日

儀同三司母・高階貴子


「儀同三司」(ぎどうさんし)は、太政大臣・左大臣・右大臣と同格であるという意。

高階貴子は、子の藤原伊周が三司と同格の内大臣となったことで「儀同三司母」(ぎどうさんしのはは)と呼ばれていました。

ただ、晩年は・・・

995年(長徳元年)、夫の藤原道隆が亡くなると、伊周は叔父の藤原道長と権力争いに敗れ、翌年正月には花山法皇を襲撃して失脚(長徳の変)。

貴子は病に倒れ、10月に没しています。




藤原定子


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藤原宣孝から求婚される紫式部


大河ドラマ「光る君へ」で、まひろ(紫式部)の家に度々訪問してくる藤原宣孝

そろそろ、まひろに求婚することになるのかも。


宣孝は、幾度となく紫式部に求婚の手紙を書いていたようですが、紫式部はその度に拒否の歌を返していたようです。

宣孝は紫式部より20歳ほども上で、何人もの女性と結婚していて、紫式部と同年代の息子もいました。

「光る君へ」では、間もなく父・藤原為時の越前下向に同行するこことなる紫式部ですが・・・

越前下向は、父親ほどの年齢差のあった宣孝からの求婚があったことも理由の一つといわれています。









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2024年5月4日土曜日

紫式部の娘は道兼の子と結婚


大河ドラマ「光る君へ」で、まひろ(紫式部)の母を殺した藤原道兼

寛和の変では花山天皇を出家させました。

995年(長徳元年)4月10日、兄の道隆の死後、関白となりますが・・・

5月8日に没します(享年35)。

長徳元年は疫病が大流行した年。

3月20日には藤原朝光、4月23日には藤原済時が亡くなっています。


「光る君へ」で、道兼の死をまひろがどう思うのか興味あるところですが・・・

のちに生まれる紫式部の娘・賢子(大弐三位)は、道兼の次男・兼隆と結婚しています。




紫式部


藤原道長

藤原彰子









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藤原定子


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毎月、道隆の供養をした定子


995年(長徳元年)4月10日、一条天皇の中宮・藤原定子の父の道隆が死去。

清少納言の『枕草子』によると、定子は毎月10日に道隆の供養をしていたのだといいます。

9月10日の追悼では、清水寺の清範の法話に皆が感動。

その後、酒を飲んだり、詩をそらんじたりしていると・・・

蔵人頭の藤原斉信が「月秋と期して身いづくか」と詠い、とても素晴らしかったのだとか。

(秋の月を愛でた人はどこに行ってしまったのだろう?)




説教をした清範は、興福寺の守朝の弟子。

清水寺の別当となって清水律師と呼ばれました。

文殊菩薩の化身といわれ、藤原道長が営んだ法会では、集まった百僧のために置かれていた敷物の一つに「文殊」と書かれたいた札が隠されていることを見抜いたのだとか。




藤原定子


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