『吾妻鏡』によると、流鏑馬の的立て役は射手以上の重要な役目。
後白河法皇が御幸した新日吉社の流鏑馬では、京都の由緒正しい公家や大寺社に仕える誇り高きエリートたちが的立て役を務めたのだとか。
1187年(文治3年)、鶴岡八幡宮で催す放生会で流鏑馬を奉納することにした源頼朝は、的立て役に熊谷直実を指名しますが・・・
弓の名手だった直実は、馬に乗って矢を射る華やかな役目ではなく、徒歩で的を支える地味な役目に納得できず、頼朝からの直接の命令を拒否してしまいます。
その結果、所領の一部を没収されたのだと伝えられています。
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熊谷直実は武蔵国熊谷郷の武将。
1184年(寿永3年)の一ノ谷の戦いでは源義経の奇襲部隊に属して平敦盛を討ち取る活躍をします。
後に出家してしまいますが、その理由は我が子ほどの年齢の敦盛を討った無常感ともいわれます。
実際は・・・
1192年(建久3年)に頼朝の前で行われた境界争いの裁判で激怒して、髻を切り逐電してしまったのだとか。
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