西行は、平安時代末から鎌倉時代初期の僧・歌人。
俗名は、佐藤義清(のりきよ)。
その家系は藤原秀郷を祖とし、曾祖父の頃より「左衛門尉」であったことから「佐藤」を名乗るようになったとする説があります。
源頼朝に仕えた安達盛長や、源義経に仕えた佐藤継信・忠信兄弟が同族といわれています。
義清が誕生したのは、平清盛と同じ1118年(元永元年)。
鳥羽上皇の時代には、北面の武士として仕えました。
「北面」とは、白河法皇の時に院警固のための設置された制度で、弓馬の道に優れただけではなく、眉目秀麗で、詩歌管弦に堪能であることが条件とされていたそうです。
しかし、義清は、1140年(保延6年)、23歳で出家し西行法師と号するように。
『西行物語』は、出家の原因を親友の佐藤範康の死と伝えているようです。
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出家後、諸国を巡り歩いた西行は、1186年(文治2年)、奥州への旅に出ます。
奥州への旅は二度目だったようですが・・・
二度目の旅は、1180年(治承4年)の南都焼討で焼失した東大寺再興に奔走していた大勧進・重源に砂金勧進を依頼されたためでした。
『吾妻鏡』によると・・・
その旅の途中で鎌倉に立ち寄った西行は源頼朝の御所に招かれています。
頼朝は和歌と弓馬について西行に尋ねますが、
「和歌を作るのは、花や月をみて深く感動したときに三十一文字が浮かんでくるだけで、特別な秘訣などはありません」
「弓馬のことは出家する前までは秀郷以来の家伝もありましたが、出家遁世してしまった今はみんな忘れてしまいました」
と答えたのだといいます。
それでも弓馬について語った西行の話を、頼朝は筆記させたそうです。
翌日正午頃、西行は御所を退出し、奥州への旅を続けます。
その時に頼朝から銀の猫を賜ったそうですが、御所の門前で遊ぶ子どもにあげてしまったのだとか。
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奥州に到着した西行は、平泉の藤原秀衡に面会。
秀衡から東大寺への送金を約束され、平泉を後にしますが・・・
翌1187年(文治3年)、頼朝に追われていた源義経が平泉に逃げ込んだことで、鎌倉と平泉の対立が決定的に。
東大寺への送金も途絶えてしまったそうです。
1189年(文治5年)、頼朝の奥州征伐により、奥州藤原氏が滅亡。
翌1190年(建久元年)、西行は73歳で亡くなっています。
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西行から弓馬について聞いた頼朝は、1187年(文治3年)、鶴岡八幡宮で放生会を催し、流鏑馬を奉納しています。
9月14日から16日の鶴岡八幡宮例大祭は、頼朝が催した放生会を起源とし、最終日には小笠原流流鏑馬が奉納されています。
きゝもせず
束稲やまの
さくら花
よし野のほかに
かゝるべしとは
平泉を訪れた西行は束稲山の桜を見て、
「吉野の桜にも勝るとも劣らない」
と驚いたのだといいます。
中尊寺の東物見台に西行の歌碑が建てられています。
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