別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2025年3月29日土曜日

源頼朝旗挙祭に掲げれた幟旗と頼朝の七騎馬落の伝説




真鶴町の岩海岸で開催された「源頼朝旗挙祭2025」の会場には、源頼朝・土肥実平・安達盛長・新開忠氏・土屋宗遠・土肥遠平・岡崎義実の幟旗が掲げられました。

1180年(治承4年)、石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、山中を彷徨った後、土肥実平の手引きで土肥郷(現在の真鶴町)に辿り着きます。

このとき従っていたのは、土肥実平安達盛長・新開忠氏・土屋宗遠・土肥遠平・岡崎義実田代信綱だったといわれています(田代信綱の幟旗はありませんでしたが。)。


土肥郷に辿り着いた頼朝主従は、再起をかけて岩海岸から船出をすることになるのですが、伝説によると・・・

頼朝は源氏にとって「八騎」というのは不吉な数なので、「七騎」にするよう土肥実平に命じます。

何故、「八騎」が不吉な数なのか?

1159年(平治元年)の平治の乱で、頼朝の父源義朝平清盛に敗れて八騎で都落ちしますが、義朝は逃亡途中の尾張国野間で暗殺され、頼朝は捕らえられて伊豆国に流されたから。


頼朝の命により実平が下船させたのは、嫡男の遠平でした。

ただ、『吾妻鏡』によると・・・

船出した頼朝の船に乗っていたのは実平のみだったようです。

岡崎義実は頼朝の船出の前日に、北条時政北条義時・近藤国平らと船出したようです。


遠平が下船させられたかどうかは別として・・・

『吾妻鏡』には、遠平が熱海の秋戸郷に隠れ潜んでいた北条政子に、頼朝が安房国へ渡ったことを知らせる重要な役割を果たしたことが記録されています。



(湯河原町)

湯河原町の城願寺土肥実平の菩提寺。

七騎堂には「頼朝七騎の像」が祀られています。



(真鶴町岩海岸)

岩海岸にある児子神社には、土肥遠平の子万寿の悲しい伝説が残されています。


(岩海岸)





源頼朝旗挙祭


湯河原・真鶴の源頼朝伝説


湯河原町では・・・
土肥祭
(4月6日)


夏には・・・
貴船祭
(7月25日・26日)


歴史めぐり源頼朝








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