古代の日本では、旧暦の5月5日に薬猟(くすりがり)が行われていました。
鹿の若角や菖蒲や蓬などの薬草を取りにいった日とされています。
採集した薬は「薬玉」(くすだま)に詰められ、9月9日の重陽の節句まで飾るという風習があったのだといいます。
これが端午節会(端午の節句)の起源と言われています。
端午節会では、「菖蒲鬘」(あやめのかづら)をつけて参列し、天皇から「薬玉」を賜っていたようです。
騎射・走馬・打毬も行われていました。
清少納言の『枕草子』には・・・
「節は五月にしく月はなし。菖蒲、蓬などのかをりあひたる、いみじうをかし」
(節供は5月に及ぶものはない。菖蒲や蓬などが香っている様子はとても趣きがある)
と記されています。
端午節会は、平安時代の宮中で盛んに催され、軒に菖蒲や蓬を挿し、菖蒲を冠に飾ったり、菖蒲の葉で作った「薬玉」(くすだま)を柱に下げたりしていたようです。
また、菖蒲の長い根を贈り合う風習があり、紫式部は小少将の君から菖蒲の根が贈られています。
『源氏物語』~蛍の巻~では・・・
兵部卿の宮から玉鬘に贈られた歌には、記録になるほどの長さの菖蒲の根が結びつけられていました。
菖蒲は古来より不浄を払い邪気を避けるものとされてきました。
鎌倉時代になると、「菖蒲」が武道を重んじる「尚武」と同じ読みであることから、武士たちも「端午の節供」を行うようになります。
『吾妻鏡』によると、1187年(文治3年)5月5日、鶴岡八幡宮で神事が行われ、北条政子が参拝したことが記されています。
これが鶴岡八幡宮の「菖蒲祭」の始まりとなります。
源頼朝の御所の屋根にも魔よけの菖蒲が葺かれたようです。
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