別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2022年8月17日水曜日

北条政子の配慮で出家した?源頼家


(修禅寺)



1203年(建仁3年)7月、源頼家が重病になった事をきっかけに、権力争いを激化させていった北条と比企。

誰もが「頼家は回復しない」と考えていたようです。

そのような中で起こったのが比企能員の変


『吾妻鏡』によると、

9月2日、北条時政比企能員を自邸に誘き出し、仁田忠常天野遠景に命じて能員を暗殺。

北条政子の命を受けた北条義時比企邸を攻め、比企一族を滅亡させました。

頼家の嫡子一幡も比企一族とともに滅びました。


しかし、比企が滅びた後、頼家の病気は回復へと向かいます。

比企と一幡が滅ぼされたと知った頼家は、和田義盛仁田忠常に時政討伐を命じますが叶いませんでした。

そして9月7日、政子の配慮により出家します。

政子の配慮???

すでに頼家に従うものはなく、このままでは謀反人に担ぎ出される可能性もあり、そうなれば、北条氏によって暗殺されてしまう可能性もあるため、頼家の命を救うには出家しかなかったのかもしれません。


出家した頼家は9月29日、伊豆国の修禅寺へ出発します。

先陣の随兵は百騎。

次に女騎が十五騎。

次に神輿三帳。

次に小舎人童一人

後陣の随兵は二百餘騎だったそうです。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


『吾妻鏡』には、政子の配慮で出家したという頼家ですが、『愚管抄』には、8月末日に自ら出家したことが記されています。

北条氏が不利にならないように記されているのが『吾妻鏡』ですので、政子の配慮をどこまで信じていいかわかりませんが・・・

いずれにしても、修禅寺に流された頼家は、翌年7月18日に暗殺されています。



源頼家


修禅寺


比企能員の暗殺・比企氏滅亡








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