別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2022年4月25日月曜日

木曽義仲追討・一ノ谷の戦い~鎌倉殿の13人第十六話~


第16話では、伊豆に引き上げていた時政が鎌倉に戻り、八重姫が産んだ子は頼朝に金剛と名づけられました。

一方、京都では後白河法皇が頼朝追討の院宣を発出。

頼朝は、木曽義仲を追討するため範頼義経を攻め上らせます。

その結果、義仲は粟津で討たれ、巴御前和田義盛に捕らえられたようです。

(※義盛は巴と結婚して朝比奈義秀を産むという伝説があります。)

義仲を討った鎌倉軍は、間もなく、一ノ谷に拠る平家も攻めて敗走させました。


次回は木曽義高が誅殺されるようです。

義高に懐いていた大姫はどうなる・・・




宇治川先陣の碑
(宇治市)

木曽義仲追討を命ぜられた源義経は、1184年(寿永3年)1月20日、宇治川から入京。

宇治川の戦いでは、佐々木高綱梶原景季の先陣争いが繰り広げられました。


(大津市)

かつては「瀬田橋を制するものは全国を制す」と言われ、京都防衛上の重要な橋でした。

木曽義仲追討では、源範頼が瀬田を攻め、義仲を粟津で滅ぼしています。


義仲寺
(大津市)

義仲寺は、義仲の愛妾・巴御前が墓所の近くに草庵を結んで供養したことにはじまると伝えられています。


木曽義仲の墓
(義仲寺)

義仲寺の境内には、義仲の墓が建てられています。


巴塚
(義仲寺)

巴御前の供養塔も。



義仲寺の南には義仲四天王の一人今井兼平の墓


(長野県木曽町)

義仲と兼平が育った木曽の徳音寺には、義仲・母の小枝御前・巴御前・樋口兼光・今井兼平の墓が建てられています。


木曽義仲の首塚
(京都:八坂の塔)

義仲の首は六条河原に晒された後、家臣の手で葬られたのだと伝えられています。

八坂の塔の境内には首塚が建てられています。


一ノ谷の戦い
(神戸市)

木曽義仲追討後、平家追討の命を受けた源範頼源義経は平家一門が拠る一ノ谷へ。

2月7日、範頼が生田口から、義経が鵯越から平家軍を攻め、屋島へ敗走させています。


須磨寺
(神戸市)

平敦盛と熊谷直実の一騎討ちを再現した庭や義経腰掛の松・敦盛塚などがあります。


(須磨寺)

一の谷の戦い熊谷直実は、波際を敗走する平家の若武者を呼び止めて一騎討ちを挑みます。

直実が組み敷いて首をとった若武者は平清盛の甥・敦盛でした。


敦盛の首塚
(須磨寺)

須磨寺の敦盛塚には首が葬られ、


敦盛の胴塚
(須磨浦公園)

須磨浦公園の敦盛塚には胴体が葬られているのだとか。


(神戸市)

生田の森は、平家の主力部隊・平知盛、重衡らが率いる平家軍が陣を張り、源氏の主力部隊・源範頼軍を迎え撃った場所。


(神戸市)


平重衡は、平清盛の五男。

東大寺興福寺を焼いた武将として知られています。


畠山重忠
(深谷市)

畠山重忠の誕生地(畠山重忠公史跡公園)の「畠山重忠像」は、一ノ谷の戦いの鵯越の逆落しの際、愛馬三日月を背負って下りたという伝説の光景を表したもの。



木曽義仲


梶原景時


源義経


一ノ谷の戦い

木曽義高の誅殺

屋島の戦い

壇ノ浦の戦い







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