別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


検索




2022年2月13日日曜日

安房国へ渡るのが当初からの計画だったのかも!~鎌倉殿の13人~


(鋸南町:竜島海岸)


1180年(治承4年)8月17日、源頼朝源氏再興の挙兵

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では鎌倉を目指しての挙兵でした。

しかし、頼朝が次に動き出したのは8月20日。

「鎌倉殿の13人」第五話では、時政がすぐに「鎌倉を目指すべき」と進言したにもかかわらず、18日は観音様を拝む日であるので戦はできないと断り、翌日には中原知親なる顔の長いという男の所領を没収しています(参考:観音信者だった源頼朝)。

『吾妻鏡』にも同じようなことが記されていますが、そんなことをしている時間があったのでしょうか?

「鎌倉殿の13人」では、山木館襲撃に集まった人数は二十数人。

おそらく、そんなものだったのでしょう。

石橋山の戦いでも三百騎だったといわれています。

だとすると、山木館襲撃後すぐに鎌倉を目指したとしても、大庭景親の軍勢に阻まれいたでしょう。

日を置けば、さらにその可能性は高くなるはず。


しかし、何かを待っていたのだとすれば、日を置く意味が出てきます。

それは三浦の軍船。

その軍船で安房国へ渡ろうとしていたのだとしたら。

しかし、誤算だったのは悪天候のため三浦軍が軍船を出せなかった事。

『吾妻鏡』にも三浦軍は海路を使って参陣する予定だったことが記録されています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

軍船を出せなかった三浦軍は陸路で石橋山へ向かいますが、間に合わず、頼朝の敗北を聞いて三浦へ引き返します。

しかし、途中の由比ヶ浜大庭景親の出動要請に応じた畠山重忠と合戦となり、さらに、その後の衣笠合戦で総帥の三浦義明が討死(小坪・衣笠合戦)。

義明の命によって子の義澄や孫の和田義盛は安房国へと船出します。

当時の安房国は三浦氏の勢力圏内だったのだとか。


一方、石橋山での敗戦後、頼朝は土肥山中を彷徨い、一時箱根権現に身を寄せますが、すぐに下山して真鶴から安房国へ船出しています。

とすると、安房国へ渡って軍勢を整えるということは当初からの決まり事。

石橋山での敗戦という想定外の事が起こり、余計な時間を過ごしたとしても、予定どおりに事は進んだと考えられそうです。


頼朝の挙兵については、まだまだ明らかになっていないことも多く、推測に基づく説も多いので、自分の推測と三谷先生の脚本を比べてみるのも面白いかもしれません。



源頼朝挙兵


石橋山の戦い


源頼朝鎌倉入り








☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2022年の大河ドラマ
鎌倉殿の13人

二代執権北条義時


特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編

特集!「鎌倉殿の13人」鎌倉編


歴史めぐり源頼朝


よりともジャパン.com


検索

Translate