『吾妻鏡』によると・・・
※竹御所の御願寺は父源頼家を供養するための御堂かと???
10月16日には、永福寺本堂の池の北方に五大尊堂を建立することが決定され、建立日時も決定されています。
安達義景の南で、千葉時胤の北、西山の周辺とされました。
ところが・・・
1月21日、五大堂の総門建立。
2月3日、土公祭を開始。
土公祭は、土公神(どくじん)がいる場所の土を犯す時に陰陽師を招き、そのいかりを鎮めるための祭なのだそうです。
2月4日、五大堂建設予定地内に、鎮守社の建設が決定。
2月10日、堂の建築開始。
3月5日、五大堂に鐘楼を建立。
3月18日、五大堂の開眼供養の日時を検討。
いろいろ検討の結果、5月5日に決定。
3月25日、北条泰時邸で話し合いが行われ、開眼供養の日時を6月9日の最吉に変更。
しかし、3月28日の話し合いでは・・・
6月19日、洪鐘の鋳造に失敗。
10月16日には、永福寺本堂の池の北方に五大尊堂を建立することが決定され、建立日時も決定されています。
しかし、10月19日、建設地を甘縄に変更。
安達義景の南で、千葉時胤の北、西山の周辺とされました。
鎌倉歴史文化交流館は、安達義景邸跡ともいわれています。
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~建設延期~
ところが・・・
10月25日の晩、大風が吹いて北条時房の公文所が焼亡。
本尊の薬師如来・観音菩薩・不動明王が造立されています。
1232年(寛喜4年)10月2日、頼経15歳の願として、大倉に寺を建立する日時が決定。
10月22日、来年建設予定の頼経の願による五大尊像を祀る御堂について、大倉の奥の土地が建設予定地と定められます(※建設が始まったのは3年後)。
11月3日、五大尊像を祀る御堂の土地に縄張りを曳き始めました。
11月9日、竹御所の願による御堂への参拝路を造営するための土公祭が行われます。
11月18日、竹御所の御堂の立柱上棟式。
大倉というと源頼朝の大倉幕府跡周辺と思うかもしれませんが、当時は現在の十二所も大倉と呼ばれていたようです。
本尊の薬師如来・観音菩薩・不動明王が造立されています。
頼経は、来年15歳の厄年であることから、その祓いの経もあげられています。
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~建設地は大倉の地!~
10月22日、来年建設予定の頼経の願による五大尊像を祀る御堂について、大倉の奥の土地が建設予定地と定められます(※建設が始まったのは3年後)。
11月3日、五大尊像を祀る御堂の土地に縄張りを曳き始めました。
11月9日、竹御所の願による御堂への参拝路を造営するための土公祭が行われます。
11月18日、竹御所の御堂の立柱上棟式。
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~大倉とは何処か?~
大倉というと源頼朝の大倉幕府跡周辺と思うかもしれませんが、当時は現在の十二所も大倉と呼ばれていたようです。
『吾妻鏡』には源実朝が建てた大慈寺が大倉郷に建てられたことが記されています。
1234年(天福2年)7月27日、竹御所死去。
1235年(文暦2年)1月15日、五大堂の門の木作り始め。
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1234年(天福2年)7月27日、竹御所死去。
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~五大堂明王院完成~
1月21日、五大堂の総門建立。
※この辺が『吾妻鏡』の記録が統一されていないところで、前の記録では、甘縄と定めたのは4年前、大倉に定めたのは3年前。
土公祭は、土公神(どくじん)がいる場所の土を犯す時に陰陽師を招き、そのいかりを鎮めるための祭なのだそうです。
2月4日、五大堂建設予定地内に、鎮守社の建設が決定。
2月10日、堂の建築開始。
3月5日、五大堂に鐘楼を建立。
3月18日、五大堂の開眼供養の日時を検討。
陰陽師らの占いによると4月11日が上吉、4月18日が下吉、5月5日が上吉だったのだとか。
いろいろ検討の結果、5月5日に決定。
3月25日、北条泰時邸で話し合いが行われ、開眼供養の日時を6月9日の最吉に変更。
しかし、3月28日の話し合いでは・・・
6月9日と決めた開眼供養の日は、頼経が外出するのに良くない日だったのだとか・・・
そのため6月29日としたようです。
6月19日、洪鐘の鋳造に失敗。