『平家物語』で知られている源義経と梶原景時の逆櫓の論争。
1185年(元暦2年)2月、摂津国の渡辺党、熊野別当の湛増、伊予国の河野通信の水軍を味方につけた義経は、摂津国渡辺津に兵を集めた。
屋島の平家を攻めるため、渡辺津を出航するにあたり、景時と軍議を場を持った義経。
景時は「この度の戦いでは船に逆櫓をつけたい」と主張。
義経は「逆櫓とは何か?」と問う。
「馬は駆け引きが自由だが、船はそうはいかない。そこで船を後ろへも自由に漕ぎ進められるように、櫓を船の前部に取り付けたい」
と景時が説明すると義経は嘲笑いながら、
「はじめから逃げる事を考えては良い結果は得られない。義経の船にはそのようなものは不要。あなたの船には付けるがよろしい」
すると景時が、
「よき大将軍とは、進退を見極め、身の安全を考えながら、敵を滅ぼすもの。
前後もわきまえずに突進するのは猪武者と申す」
と述べると、義経は、
「猪だは鹿だか知らないが、戦はただ攻めに攻めて勝った方がよい」
と言い放ったのだとか・・・。
義経と景時の確執は、義経の没落へと繋がっていったと言われている。
ただ・・・
『吾妻鏡』2月14日の記述によると、源頼朝は当時周防国にいた源範頼に対して「土肥実平や梶原景時と話し合って九州勢を味方にするように」と命じているので、景時は範頼と行動を共にしていたのかも・・・
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