『平治物語』によると・・・
1160年(平治2年)正月5日の朝、源義朝に仕えていた金王丸が常盤御前の許にやってきて、正月3日の夜明け前に尾張国野間で長田忠致によって義朝が討たれたことを報告します。
そして、出家して義朝の菩提を弔うつもりであることを言い残して去って行ったのだといいます。
この金王丸ですが、1185年(文治元年)に源義経を襲撃した土佐坊昌俊だとする説があります。
金王丸は、相模国渋谷荘を治めていた渋谷重国の子とも弟ともいわれ、仕えていた源義朝が暗殺されると出家して土佐坊昌俊と称したのだとか。
義経襲撃に失敗した土佐坊は六条河原で梟首されていますが、25年前に常盤御前に抱かれる義経を知っていたため、義経を討つことができなかったという伝説も残されているようです。
📎土佐坊昌俊の義経襲撃
東京渋谷区にある金王八幡宮は、金王丸の祖先・河崎基家の創建。
渋谷八幡宮という名称でしたが、金王丸の名声によって社名を改めたのだと伝えられています。
3月には、源頼朝が鎌倉から移植させたという金王桜が咲くそうです。
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