1284年(弘安7年)4月4日は、八代執権北条時宗の命日。
円覚寺塔頭佛日庵では時宗公毎歳忌が執り行われます。
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時宗は、1251年(建長3年)5月14日、甘縄の安達景盛邸で誕生。
父は五代執権の北条時頼、母は北条重時の娘。
(甘縄神明神社)
(甘縄神明神社)
安達邸が甘縄のどこにあったのかは定かではありませんが、甘縄神明神社の近辺という説があるようです。
時宗の父時頼は、安達景盛の娘松下禅尼を母としています。
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時宗の幼名は「正(聖)寿丸」といいました。
嫡男であったことから「相模太郎」とも呼ばれていました。
稲村ヶ崎の聖福寺は、北条時頼が二人の息子(正(聖)寿丸(=時宗)と福寿丸(=宗政))の息災延命を祈願して建てた寺と伝わっています。
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~時頼の定めた子息の序列~
時宗には異母兄の時輔がいましたが、父時頼は子息の序列を定め、時宗、宗政、時輔の順にします。
※時輔は、元寇前の1272年(文永9年)に起こった二月騒動で討たれています。
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1257年(正嘉元年)、7歳で元服した正(聖)寿丸は、六代将軍宗尊親王の一字をもらって「時宗」と名乗ります。
1261年(弘長元年)、安達義景の娘堀内殿と結婚(11歳)。
※堀内殿は、時宗の死後、東慶寺を建立した覚山尼。
1264年(文永元年)、14歳で連署に就任します。
やがて、日本にはモンゴル帝国(元)の侵攻という国難が降りかかってきます。
そんな中の1268年(文永5年)、時宗は18歳で八代執権の座に就きます。
モンゴル帝国の皇帝クビライは、二度にわたって日本を攻めますが、時宗は見事にこの難局を乗り切りました(参考:元寇(文永・弘安の役))。
蒙古襲来絵詞
(常立寺)
文永の役後、モンゴル帝国(元)は、5人の使節を日本に派遣しますが、時宗はこの5人を龍ノ口で処刑します。
藤沢片瀬の常立寺には元使の五輪塔が建てられています。
1282年(弘安5年)、時宗は元寇によって死んだ兵の菩提を弔うために円覚寺を建立します。
文永の役後に、戦没者の慰霊を思い立ったのだといわれています。
そして、弘安の役の翌1282年(弘安5年)に無学祖元を招いて落慶供養が行われました。
しかし、心労のためか1284年(弘安7年)4月4日亡くなります。
円覚寺塔頭の佛日庵は、時宗の廟所として建立されました。
九代執権北条貞時、十四代執権北条高時も合祀されています。
堂の下には、三人の遺骨を納めた石櫃があると伝えられています。
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北条時宗をめぐる。
尼五山の一位だった太平寺(廃寺)は、時宗によって招かれた大休正念によって仏殿供養が行われたのがそのはじまりと伝えられています。
父時頼の最明寺を時宗が蘭渓道隆を招いて再興し禅興寺としました。
明月院はその禅興寺の支院です。
極楽寺の八重一重咲分桜は、時宗のお手植えとされています。
時宗の命により、極楽寺の忍性が開いた療養所といわれています。
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