別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2017年10月22日日曜日

鎌倉でもあった仇討~亀ヶ谷の仇討~

「亀ヶ谷の仇討」は、1677年(延宝5年)1月19日の晩に起こった事件。

討たれたのは江戸の医者・野田宗畔。

討ったのは仙台藩お抱えの能役者・松ヶ枝久左衛門と叔父の岩井利兵衛。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

野田宗畔は、両国村松町で医者をしていました。

繁盛していたようですが、その一方で高利貸も営んでいました。

他人からの預かり金をも高利で貸していましたが、ついに四百両の穴をあけてしまいました。

弁償しなければならなくなった宗畔。

ところが、門弟の松ヶ枝宗順がその四百両を盗んで逃げたことにしようと考え、浪人を雇って宗順を殺すよう頼みます。

頼まれた浪人は、宗順を舟遊びに誘い出して殺しました。

その後、人殺しとして捕らえられた浪人は、宗畔に頼まれてやったことを白状しますが、何故だか宗畔は罪に問われませんでした。

それを聞いた宗順の兄・松ヶ枝久左衛門と叔父の岩井利兵衛は、宗順の仇を討つことにします。

それをどこからかの噂で知った宗畔は、鎌倉の壽福寺辺りに身を隠し、用心棒を雇い、あわよくば返り討ちにしようと考えていたそうです。

鎌倉の宗畔の屋敷を突きとめた久左衛門と利兵衛でしたが、宗畔の用心深さに手を出せずにいましたが・・・

一計を案じます。

それは「二人が宗畔の屋敷がわからず、いったん仙台に帰った」という噂を流すことでした。

噂を聞いた宗畔。

安心して外出するようになります。

よく出かけたのが扇ヶ谷の知人の庵室だったのだといいます。

そして仇討ち決行の日がやってきます。

庵室から帰るのが夜になると聞きつけた久左衛門と利兵衛、そして下男の三人。

僧侶に姿を変えて地蔵堂に潜んでいました。

そして、庵室からの帰りの宗畔が地蔵堂の前にさしかかります。

扉を蹴破って外に出た久左衛門。

名乗りをあげて宗畔に襲いかかりますが、鎖かたびらを身に着けていた宗畔を斬ることができないでいましたが、

打ち合いが続くうちに、宗畔が足を踏み外して傍らの溝川に転げ落ち、その上にのしかかった久左衛門がとどめを刺したのでした。

その間、利兵衛と下男は宗畔の供のものを追い払っていました。

見事に仇を討った久左衛門。

かなりの傷を負っていたそうですが、仙台藩の江戸屋敷で手当てをしてもらい帰国。

恩賞も授かったようです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 亀ヶ谷坂

 岩船地蔵堂

松ヶ枝久左衛門が待ち伏せしていたのは岩船地蔵堂だったのでしょうか・・・。


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