無学祖元は、中国・宋の禅僧。
1279年(弘安2年)8月20日、八代執権・北条時宗の招きによって来日し、建長寺の第五世住持となります。
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~無学祖元の臨刃偈(りんじんげ)~
元の侵攻による難を避けて能仁寺にいた無学祖元。
やがてそこにも元の兵がやってきます。
寺僧はみな逃げ出しますが、無学祖元はひとり僧堂に残っていました。
元兵は刀をかざして無学祖元を脅しますが、それに対して・・・
「振りかざされた剣も、生死を超えた身には稲光のあいまに春風を斬るようなものだ」
といったのだといいます。
元兵は、「死をおそれぬ無学祖元の気迫におされ退散していった」という逸話が残されています。
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~莫煩悩~
1281年(弘安4年)、日本は元軍による二度目の侵攻を避けられない情勢となります。
苦悩の時宗は、この年の正月、無学祖元を訪ねます。
すると、無学祖元は、紙片に「莫煩悩」(まくぼんのう)という三文字を書き、それを時宗に渡しました。
「迷うことなく信ずるところを行え」
という意味であったといいます。
「蒙古の襲来は、大風が掃蕩してくれるので心配ない」
との説明を加えられたともいいます。
そして、この年、元軍が攻めてきました(弘安の役)。
「莫煩悩」の文字を師より受けた時宗は、元の襲来の報が入ると、無学祖元に「喝」(かつ)という言葉を告げて、自分の決意を示したと伝えられています。
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円覚寺は、元との戦いで犠牲となった者を敵味方なく供養するため北条時宗が創建しました。
開山は無学祖元。
総門前の白鷺池は、祖元が来日したときに、白鷺に姿を変えた鶴岡八幡宮の神霊に導かれた場所だといわれています。
※鎌倉検定では、白鷺に導かれたのは北条時宗ということだったようですが・・・
白鹿洞は、祖元の法話を聞くために集まった白鹿が出てきた穴と伝えられています。
円覚寺の山号は瑞鹿山。
白鹿伝説から付けられた山号といわれ、「めでたい鹿のお山」という意味があるのだそうです。
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(北条時宗の廟所)
1284年(弘安7年)4月4日、北条時宗が亡くなります(34歳)。
亡骸は円覚寺に葬られました。
(無学祖元の塔所)
時宗の三回忌から間もない1286年(弘安9年)9月3日、祖元も建長寺で示寂。
亡骸は建長寺に葬られました。
建長寺には塔所として正続庵が創設されていましたが、1335年(建武2年)、後醍醐天皇の勅命により円覚寺に移されています。
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10月3日の開山忌では、正続院の舎利殿に一山の僧侶が集まり法会が行われます。
4年に一度の閏年には、無学祖元の坐像が輿に乗せられ境内を巡堂します。
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