運慶は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて活躍した奈良仏師。
奈良仏師は興福寺を拠点に活動していました。
平等院の阿弥陀如来坐像(国宝)を造立した定朝の流れをくむ仏師集団です。
☆ 鎌倉幕府と運慶 ☆
~源頼朝と奈良仏師~
1185年(文治元年)、源頼朝は奈良仏師成朝を招いて、勝長寿院の阿弥陀如来像を造立させてまいす。
『吾妻鏡』によると丈六の皆金色の阿弥陀仏だったのだといいます。
のちに建立された永福寺の丈六阿弥陀如来像も成朝の造立だったと伝えられてます。
成朝は、奈良仏師の本家慶朝の子。
頼朝は何故、奈良仏師の中から成朝を選んだのか・・・
これには諸説あるようですが、頼朝は範頼や義経といった弟たちとの関係からみても、系統や血筋を重く考えていました。
したがって「定朝の嫡流」である成朝を選んだのではないかという考えが有力のようです。
当時、奈良仏師の中で僧綱位にあったのは運慶の父康慶のみだったそうです。
それでも頼朝は無位の成朝を選んでいます。
※僧綱位とは、法橋・法眼・法印といった僧位。
~北条時政と運慶~
1186年(文治2年)、北条時政は建設中の願成就院の諸仏制作を運慶に依頼しています。
願成就院の阿弥陀如来像・不動三尊像・毘沙門天像・こんがら童子像・せいたか童子像は、運慶の真作で、2013年(平成25年)、国宝に指定されています。
『吾妻鏡』にも本尊阿弥陀如来坐像は運慶の造立と記録されています。
伊豆の国市にある願成就院は、1189年(文治5年)、北条時政が源頼朝の奥州討伐の戦勝を祈願して建立した寺院。
~和田義盛と運慶~
1189年(文治5年)、和田義盛は浄楽寺の諸仏制作を運慶に依頼しています。
浄楽寺の阿弥陀如来及両脇侍像・不動明王像・毘沙門天像は運慶の真作で国の重要文化財に指定されています。
横須賀市にある浄楽寺は、1189年(文治5年)に和田義盛が建立したと伝えられている寺院。
~何故、運慶だったのか?~
北条時政と和田義盛は、何故、成朝ではなく運慶を選んだのか・・・
頼朝と同じ成朝にするわけにもいかず、さらに、傍系であっても僧綱位にあった康慶を選ぶわけにもいかないため、運慶を選んだのだという考えが有力のようです。
頼朝に配慮してということだったようです。
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~正系から傍系へ~
成朝が没すると奈良仏師の正系が途絶えます。
そして、傍系の康慶、運慶らの慶派に受け継がれていきました。
最晩年の運慶は、鎌倉幕府関係の造仏が多く携わります。
称名寺(横浜市金沢区)の塔頭光明院の大威徳明王は、1216年(建保4年)、最晩年の運慶によって造立された貴重な仏像です。
『吾妻鏡』によると、源実朝の持仏堂「釈迦如来像」、大倉薬師堂「薬師如来像」、勝長寿院「五大尊像」が運慶作だったのだといいます。
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運慶の代表作
東大寺南大門の金剛力士像
運慶は、平重衡によって焼かれた興福寺や東大寺の復興に貢献しました。
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