小田原城址公園の天守閣後方の八幡山にある遺構。
戦国期の小田原城の主郭があった所と推定されています。
小田原城は大森氏が築いた城といわれ、1495年(明応4年)に北条早雲が奪い取ったとのだといわれていますが、早雲が小田原城を落した時期については諸説あるようです。
ただ、1501年(文亀元年)には、小田原城下にあった伊豆山神社の所有地についての文書が残されていることから、この頃には早雲の領有する城となっていたのだと考えられているようです。
早雲の本名は伊勢盛時。
父は伊勢盛定、母は室町幕府政所執事・伊勢貞国の娘とする説が有力です。
早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の五代は、鎌倉時代の北条氏と区別するため、小田原北条氏あるいは後北条氏と呼ばれています。
~火牛の計~
小田原城主の大森藤頼と親しい間柄となった北条早雲。
鹿狩りをしたいので勢子を箱根山中に入れたいと申し出ます。
勢子とは、狩猟で声をあげたり、鳴り物を鳴らすなどする役目の者。
藤頼は快く承諾しました。
選りすぐりの精兵を勢子に仕立てて箱根山に進めた早雲。
夜、千頭の牛の角に松明を結わい付けて放ち、一気に小田原城へ突入して奪い取ったのだとか・・・。
北条早雲像
小田原駅前の北条早雲像は「火牛の計」をモチーフにしています。
※5月の北條五代祭りの時には兜に陣羽織姿となります。
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早雲が奪い取った小田原城は、2代目の氏綱のときから北条氏の居城となり、1590年(天正18年)に5代目の氏直が開城するまで、関東支配の拠点となりました。
氏政は北条氏四代当主。
氏政は、早くから家督を氏直に譲っていましたが、実権は握り続け、240万石にも及ぶ小田原北条氏の最大版図を築き上げました。
しかし、豊臣秀吉と対立。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めによって小田原城は落城。
氏政は切腹しています。
~総構~
秀吉との合戦に備えて氏政が築いたのが、八幡山から海に至るまで、城と城下町を全長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだ総構(そうがまえ)です。
小田原は、戦国期最大の城郭都市であったといわれています。
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石垣山方面
1590年(天正18年)、小田原を攻めた豊臣秀吉は、石垣山に城を築きました。
約80日間を費やした城だったようですが、完成後に周囲の木を伐採して一夜のうちに城を築いたように見せかけたことから「石垣山一夜城」と呼ばれています。
この城の出現によって北条氏側の将兵は戦闘意欲を喪失したのだとか・・・
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