~一万遍の南無阿弥陀仏~
『吾妻鏡』の1199年(正治元年)10月25日の条によると・・・
将軍御所の侍所では、結城朝光が夢のお告げを受けたとして、正月に亡くなった源頼朝のために、「一万遍の念仏」を唱えることを皆に勧めています。
そして、皆で念仏・・・「南無阿弥陀仏」を唱和しました。
そのとき朝光は「忠臣は二君に仕えずと申すが・・・頼朝公が亡くなられたときに出家をとどめられたことを大変後悔している・・・」と語ったのだとか。
頼朝の近くに仕えていた朝光の言葉に皆が涙を流したといいます。
(結城市)
結城朝光は、小山政光と頼朝の乳母を務めた寒河尼の子です。
野木宮合戦の恩賞として結城の地を与えられ、結城氏の祖となりました。
頼朝は特別な感情を持って朝光を可愛がっていたようです。
称名寺は朝光の菩提寺。
(一説には、頼朝と寒河尼の娘との間に生まれた子ともいわれています。)
~梶原景時の讒言~
『吾妻鏡』の1199年(正治元年)10月27日の条によると・・・
阿波局が「梶原景時の讒言で、あなたは殺されてしまうかもしれません」と結城朝光に告げたのだといいます。
その理由は、
朝光が「一万遍の念仏」を唱えた日に、「忠臣は二君に仕えず」と述べたことが現将軍源頼家に敵対していると捉えられたからのようです。
驚いた朝光は、親交のあった三浦義村に相談します。
朝光は義村に「頼朝公より受けた御恩を思うと須弥山の頂より高いもので、むかしを慕うあまりに「忠臣は二君に仕えず」と言った」と釈明しています。
義村は「事は重大なので、宿老たちに相談すべきだ」と言ったそうです。
そして、使いを差し向けたところ、さっそく和田義盛や安達盛長などが集まり、味方の署名を募って景時を訴えることとなりました。
訴状は、文章がうまいという評判の中原仲業が担当することとなりましたが、仲業はかねてより景時に遺恨を抱いていたといいます。
※阿波局
北条時政の娘で、北条政子の妹、源頼朝の弟阿野全成の妻、千幡(源実朝)の乳母でした。
~御家人の集結:連判状の作成~
『吾妻鏡』の1199年(正治元年)10月28日の条によると・・・
午前10時頃、
千葉常胤、三浦義澄、三浦義村、畠山重忠、小山朝政、足立遠元、和田義盛、比企能員、葛西清重、八田知重、岡崎義実らの御家人が鶴岡八幡宮の回廊に集まりました。
そこへ、中原仲業が訴状を持ってきて読み上げます。
その文中には「鶏を養(か)う者は狸を畜(やしな)わず、獣を牧(か)う者は豺(やまいぬ)を育(やしな)わず」とあったそうです。
三浦義村はこの文に感心したといいます。
そして、その訴状に66人の御家人が署名・血判したということです。
(何故だか分かりませんが、結城朝光の兄長沼宗政は署名はしますが、血判を押さなかったそうです。)
連判状は、和田義盛と三浦義村が大江広元に託しています。
~和田義盛の催促~
『吾妻鏡』の1199年(正治元年)11月10日の条によると・・・
和田義盛と三浦義村から連判状を受け取った大江広>元は、梶原景時が讒言によって人を陥れることにつては気になっていましたが、源頼朝に親しく仕えていた景時を直ちに処罰することは好ましいことではないと考え、平和的に解決する方法を思案していました。
しかし、この日、和田義盛と御所で出会い、義盛に「連判状を将軍源頼家に見せたかどうか」を尋ねられます。
「まだ・・・」と答えると義盛が怒って、
「景時が恐ろしいのか」と詰め寄ったといいます。
広元は頼家に伝えることを約束して席を立ちました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
このような経緯があって、1199年(正治元年)11月12日、大江広元によって「連判状」が将軍源頼家に提出されます。
頼家は、「連判状」を梶原景時に渡し弁解するよう伝えますが、景時は何の弁解もせず、翌日、子息・親類を率いて相模国一宮に引き下がりました。
(寒川町)
ただ、景時の子景茂は鎌倉に残っていて、11月18日に比企邸で開かれた宴会に出席しています。
景時に対する訴状を作成した中原仲業も同席していたといいます。
その席で頼家が訴状について触れると「頼朝の寵愛を受けた父景時が悪だくみなどするわけがない」と答えたといいます。
12月9日、景時は一度鎌倉に戻りますが、12月18日、評定の結果が出て、景時は鎌倉から追放されることとなります。
景時の屋敷は分解されて永福寺の僧侶の住居として寄附されたとのことです。
(鎌倉)
そして、翌年正月20日、景時は上洛すべく一の宮を発ちますが、駿河国清見関付近で在地武士と合戦となり、景時は討死し、梶原一族は滅亡しました。
(鎌倉:深沢小学校)
★何故、梶原景時は結城朝光を陥れようとしたのか?
1195年(建久6年)、源頼朝は東大寺大仏殿の落慶供養に参列しています。
その折、僧侶と警固の武士との間で紛争が起こりました。
梶原景時はそれを鎮めようとしますが、その態度が傲慢無礼だとして一触即発の事態となってしまいます。
この時、頼朝は結城朝光に命じて事態を収拾させています。
景時は面目を潰され、朝光を憎んでいたという説もあるようです。
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★『吾妻鏡』と『玉葉』の違い、そして『愚管抄』。
『吾妻鏡』の記述では・・・
「連判状」には、北条時政や北条義時の名が連ねられていないようです。
何故なのでしょうか?
九条兼実の日記『玉葉』には、梶原景時は「源頼家の弟千幡(のちの実朝)を担ぎ出し、頼家を討とうとする企みがあることを讒言した」という内容が書かれているようです。
『吾妻鏡』は、北条氏に有利に描かれていると言われますが、「梶原景時の変」についても、その真実を隠してしまっているのでしょうか。
その後の時代の流れをみてみますと・・・
梶原景時が討死してから3年後の1203年(建仁3年)、北条時政は比企能員を暗殺し、その一族と頼家の子一幡を滅ぼしています(参考:比企能員の変)。
参考までに、この事件の直前に阿野全成が謀叛の罪で殺されています(参考:阿野全成の誅殺)。
比企能員の変によって頼家は修禅寺に流され、翌年暗殺されました。
頼家が殺されたことについて・・・
九条兼実の弟慈円が書いた『愚管抄』には「頼家は、乳母夫を務め、一の郎等であった梶原景時を見殺しにしなければ、このようなことにはならなかった」という内容が書かれているようです。
(建長寺で行われる梶原景時の供養)