父は信濃国の豪族・真田昌幸。
信繁という名は、武田信玄の弟信繁と同じ。
昌幸は尊敬する信繁の名を次男に付けたのだといいます。
☆☆☆
信繁は、関ヶ原の戦いでの西軍敗北により高野山に配流となりますが、大阪の陣では大坂城に入り徳川軍を大いに苦しめました。
1615年(慶長20年)5月7日、大坂夏の陣(天王寺・岡山の戦い)で、幾度となく家康本陣に迫りますが、四天王寺近くの安居神社で最期を遂げたのだと伝えられています。
(※信繁の最期については諸説あるようです。)
妙心寺塔頭養徳院
1583年(天正11年)、石川光重が父光延の菩提を弔うために創建。
開山は光重の兄で妙心寺67世の功沢宗勲。
一説によると、真田信繁の七女・おかねを妻としたという石川貞清は光重の子だといいます。
そして、大坂夏の陣で最期を遂げた信繁の亡骸は養徳院に埋葬されたとの伝承があるようです。
養徳院は非公開。
妙心寺塔頭大珠院
1493年(明応2年)、妙心寺22世の興宗宗松が創建。
当初は大珠寺と称して洛中にあったといわれ、天文年間(1532年-1555年)に龍安寺内に移されました。
院前の鏡容池の島にあるという真田信繁と妻竹林院の五輪塔は、信繁の七女・おかねを妻としていたという石川貞清が建立したのだと伝えられています。
竹林院は、大坂夏の陣後、貞清やおかねの保護を受けて京都で暮らしていたのだといいます(1649年(慶安2年)5月18日没)。
大珠院は非公開。
(参考)
真田信繁とその妻・竹林院の五輪塔を建立したという石川貞清は、竹林院より先に亡くなっているようです(1626年(寛永3年)4月8日没)。
一説によると、信繁の七女・おかねを妻としたのは貞清の嫡男重正だったとするものもあるようです。
信繁夫妻の五輪塔を建てたのが重正であるなら時代の流れが合うようです。
・・・・・・・・・・・
鎌倉との繋がりを求めて・・・