源義朝は、鎌倉に武家の都を創った源頼朝の父。
1159年(平治元年)12月、平清盛に敗れた義朝は、尾張国野間の長田忠致のもとに身を寄せます。
源義朝像
(御湯殿跡)
しかし、1160年(平治2年)正月3日、平家の恩賞に授かりたい忠致は、義朝に入浴をすすめ、入浴中の義朝を殺害しました。
義朝の郎党・鎌田政長(政清・政家)も酒の席で殺害されています。
法山寺
湯殿跡は法山寺にあります。
法山寺の入り口にある乱橋は、義朝が殺害されたことを知った義朝の家臣と、長田忠致の家臣が戦ったという場所。
野間大坊(大御堂寺)にある義朝の墓には、たくさんの木太刀が供えられています。
これは、義朝が「我れに木太刀の一本なりともあれば」と言い残したことによります。
殺害された義朝の首が洗われたという池。
義朝と政長の首は京に送られ獄門にかけられました。
義朝を殺害した長田忠致父子は、源頼朝が挙兵するとその下で働き、多くの手柄をあげたといいますが、頼朝は忠致父子を許すことはありませんでした。
1190年(建久元年)、上洛途上で野間に立ち寄った頼朝は、忠致父子を松の木に磔にして殺害したと伝えられています。
長田屋敷跡
野間大坊の手打ちそば
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