別冊『鎌倉手帳』




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2013年5月20日月曜日

新田義貞の鎌倉攻めと宝戒寺の徳崇大権現会

1333年(元弘3年)5月7日、足利尊氏が京都で六波羅探題を攻め滅ぼすと、翌5月8日には新田義貞が挙兵し鎌倉に迫ります。

新田義貞による鎌倉攻めは5月18日から始まりました。

義貞は、巨福呂坂仮粧坂極楽寺切通の三方から鎌倉を攻めたといいます。


洲崎古戦場跡の碑


各地で激戦が繰り広げられますが、5月22日、新田軍は稲村ヶ崎を突破し、鎌倉へ攻め入りました。





伝説では、新田義貞が黄金の太刀をを海に投げ入れ龍神に祈ったことにより潮が引いて稲村ヶ崎を突破したということですが・・・

新田軍の大舘宗氏は、これより先に由比ヶ浜に注ぐ稲瀬川で討死しているようですので、どこの戦場においても、新田軍が鎌倉へ入ったり退いたりという具合だったかもしれません。





七里ヶ浜にも新田義貞の古戦場が残されています。

小動岬の東側に残された「十間坂」は、鎌倉攻めが始められたときに火をかけられました。

江ノ電鎌倉高校前駅から鎌倉高校正門へと続く「日坂」は、かつて「新田坂」と呼ばれ、新田軍が下った坂だといわれています。






新田軍が稲村ヶ崎を突破したことによって、北条高時をはじめとする北条一族は、東勝寺に退きます。

おそらく、巨福呂坂仮粧坂極楽寺切通なども破られ、新田軍が攻めてきたことでしょう。

高時ら北条一族が東勝寺で自刃したことによって鎌倉幕府は滅亡しました。

最後の執権となった赤橋(北条)守時は洲崎で討死。

最後の将軍となった守邦親王は出家。






北条執権館があった場所という宝戒寺では、毎年5月22日に北条一族を供養するための「徳崇大権現会」が行われます。

普段は徳崇権現堂に安置されている北条高時像が本堂へ移され、「大般若経転読会」が行われます。






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