父は北条時頼、母は葛西殿(北条重時の長女)。
★隆弁の予告と北条時宗の誕生
甘縄神明神社の「北条時宗公産湯の井」
1257年(正嘉元年)2月26日、六代将軍宗尊親王の御所で元服し、一字を賜り「相模太郎時宗」と名乗る。
1261年(文応2年)正月4日、鶴岡八幡宮の供奉の序列が、相模太郎(時宗)、相模四郎(宗政)、相模三郎(時輔)と定められる。
→→→「時宗は全てにおいて兄(時輔)の上に着すべき」
1261年(文応2年)4月23日、有力御家人安達義景の娘堀内殿と結婚。
1261年(文応2年)4月25日、極楽寺で行われた小笠懸で将軍御前で妙技を披露(参考:弁慶と北条時宗の伝説~極楽寺~)。
1264年(文永元年)8月11日、連署に就任。
1268年(文永5年)3月5日、八代執権に就任。
1272年(文永9年)2月11日、兄時輔の謀叛に加担したとみられる名越時章と名越時教の兄弟を殺害。
4日後の15日、六波羅探題南方の時輔を襲撃し殺害(二月騒動)。
1274年(文永11年)10月、蒙古襲来(文永の役)
1281年(弘安4年)5月、2度目の蒙古襲来(弘安の役)
安国論寺の立正安国論碑
1282年(弘安5年)3月1日、巨福呂坂から鎌倉へ入ろうとした一遍を阻止(参考:一遍地蔵堂跡)。
1282年(弘安5年)12月8日、円覚寺落慶。
1284年(弘安7年)4月4日無学祖元を戒師として出家。同日死去(34歳)。
円覚寺に葬られた。
円覚寺開基廟:佛日庵
北条時宗の命日4月4日には、時宗公毎歳忌が行われます。
北条時宗
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