別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2013年3月18日月曜日

庶民に信仰された大仏様と観音様

東大寺「銅造盧舎那仏坐像」(大仏)は、聖武天皇の発願によって造立されたものですが、ただ単に王権の象徴であったのではなく、庶民を救済するためのものでした。


(奈良の大仏)


そして、興福寺には、藤原冬嗣が建立した南円堂があります。

南円堂には「不空羂索観音像」が安置され、西国三十三箇所の第九番札所として庶民の信仰を集めていました。




九条兼実の日記『玉葉』によれば、兼実の妻や子がしばしば藤原氏の氏社である春日社を参詣し、興福寺南円堂東大寺にも参詣していたという記事が登場します。

興福寺への参詣は藤原氏の氏寺であることから当然のことと思われますが、やはり、庶民信仰の場である東大寺への参詣も重要なことだったのでしょう。




東大寺の大仏は、その大きな体で衆生を包み込むように見つめ、光を放ってくれる存在でした。

そのため、1180年(治承4年)に平重衡によって焼かれた後も、庶民への勧進により再興されています。




その後、鎌倉にも大仏が造立されました。

鎌倉大仏を造りはじめたのは、東大寺の大仏を再興した重源の影響を受けた浄光。

造られた場所は深沢の地。

近くには長谷観音の名で庶民の信仰を集めた長谷寺があります。




当時の深沢という地は、下層の人々が住む地だったといいます。

そして、飢饉におそわれ、疫病が大流行していました。

極楽寺忍性は、大仏の前の桑ヶ谷で庶民に粥の施しを行っています。


 桑ヶ谷療養所跡


鎌倉大仏が造立された理由は定かではないといいますが、東大寺の大仏同様に、ただ単に鎌倉幕府の象徴というものではなく、庶民信仰を背景に造立されたと考えるべきかもしれません。

東大寺の近くには興福寺という観音信仰の場のあり、鎌倉大仏の近くには長谷寺という観音信仰の場があるというのも似ています。


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