砲台が置かれた小動岬と稲村ヶ崎
幕末の小動岬と稲村ヶ崎には異国船監視のための見張り番所が置かれ、砲台となっていました。
長州藩や会津藩などが沿岸の警備を行っていたといいます。
小動岬の小動神社は、源頼朝に仕えた佐々木盛綱が近江の八王子宮を勧請して創建した社で、風もないのに揺れる「こゆるぎの松」と呼ばれる松があったことから、「小動」(こゆるぎ)の名が付いたといわれています。
小動岬の展望台から見た江の島
稲村ヶ崎は、鎌倉攻めを行った新田義貞の龍神伝説が残された地。
稲村ヶ崎からの展望は、かながわの景勝50選
吉田松陰と瑞泉寺
明治維新の指導者で長州藩の吉田松陰は、1854年(安政元年)、下田で密航を企てますが失敗し、捕らえられます。
その直前、松蔭は瑞泉寺を訪れ、獄中でその時のことを思い出していたといいます。
瑞泉寺は、夢窓国師が開いた臨済宗の古刹。
関東十刹の一位という格式をほこり、本堂に安置されている千手観音像は徳川光圀の寄進と伝えられています。
本堂背後の庭園は、夢窓国師の作庭で国の名勝に指定されています。
広木松之助と上行寺
広木松之助の墓(上行寺)
1860年(万延元年)3月3日、攘夷派を弾圧してきた大老井伊直弼が襲撃されました(桜田門外の変)。
襲撃した者の中に広木松之助(水戸浪士)がいました。
襲撃後、松之助は材木座に逃れ、上行寺の住職を頼って匿ってもらったといいます。
桜田門外の変からちょうど2年後の3月3日に自害しました。
英国人殺傷事件と下馬
1864年(元治元年)11月20日、下馬付近で江ノ島・鎌倉見物にきていた英国人軍人ボールドウィン少佐とバード中尉の二人が殺傷されるという事件が起きました(鎌倉事件)。
事件を起こしたのは、攘夷浪士の間宮一と清水清次。
二人は逃げる途中、諏訪邸の諏訪の池で刀の血を洗い流したといいます(参考:諏訪神社 旧御用邸門)。
二人は、その後逮捕され処刑されています。
※この事件の2年前、横浜の生麦では、島津久光の行列に乱入したイギリス人が殺傷されています(生麦事件)。
下馬四ツ角は、若宮大路と大町大路が交差する場所。
鶴岡八幡宮を参拝する者がここで馬を下りたため、「下馬」(げば)という地名が付けられました。
江戸時代までは、段葛がここまで通じていたといいます。
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