頼朝は、1199年(建久10年)に53歳で亡くなりました。
その死因は不明ですが、『吾妻鏡』の1212年(建暦2年)2月28日条によると・・・
1198年(建久9年)、稲毛重成が相模川に橋を新造します。亡き妻の供養のためだったといいます(重成の妻は北条政子の妹でした。)。
頼朝はその橋供養に出席しますが、その帰途に落馬し、間もなく亡くなったといいます。
※『吾妻鏡』は、1196年(建久7年)から頼朝が亡くなるまでの記事を欠いていることから、頼朝の死因についての詳しいことは不明のままです。
旧相模川橋脚(茅ヶ崎市)
頼朝が渡り初めをしたという相模川の橋は、長い間地中に埋もれていましたが、関東大震災の液状化現象によってその橋脚が浮き出てきました。
1200年(正治2年)正月13日、頼朝の一周忌が法華堂で営まれ、北条政子が自らの髪の毛を除髪して刺繍したという「梵字の曼荼羅」が飾られたといいます。
頼朝と政子が崇敬した伊豆山神社には、北条政子の頭髪曼荼羅が伝えられています。
源頼朝墓からの景色
源頼朝墓の下にある白旗神社では、1月13日に例祭が行われ、頼朝の遺徳を讃える祝詞が奏されます。
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