後深草院の寵愛を受けながらも、数々の恋愛遍歴をもった人物です。
出家後、西行にあこがれて旅に出ます(参考:奥州を旅した西行と鎌倉)。
そして、1289年(正応2年)3月、二条は鎌倉を訪れます。
※『とはずがたり』は、後深草院二条の日記・紀行文。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
鎌倉に入る前夜江の島の岩屋に泊まった二条は、夜明け頃、鎌倉に入って極楽寺を参拝し、僧の振る舞いが都と同じであるのを懐かしく思いながらみていたといいます。
極楽寺を出た二条は、仮粧坂を越えます。
仮粧坂からの鎌倉の景色を「東山で京を見るのとは異なり、家々が階段のように重なり合って、袋の中に物を詰め込んだように住んでいる」と表現しています。
極楽寺から尾根沿いに仮粧坂まで行ったのでしょうか・・・。
仮粧坂から由比ヶ浜に出て、浜の大鳥居、鶴岡八幡宮という順で歩いているようですので、本当は極楽寺坂(切通)を下ったのでしょう。
鶴岡八幡宮を参拝した二条は、「海をはるかに見渡すことができるので、石清水八幡宮より見どころがある」と感じたようです。
今でも本宮楼門前からは海が見えます。
このようにして荏柄天神社・永福寺・勝長寿院を巡拝した二条でしたが・・・
病気になってしまい、月日が過ぎるうちに8月になってしまったようです。
そして、鶴岡八幡宮の放生会を見学しています。
(鶴岡八幡宮例大祭)
それから間もない9月、将軍惟康親王が将軍職を解任され京へ送還されます。
※惟康親王は、六代将軍宗尊親王の子(参考:親王将軍)
その様子は・・・
御輿は逆さまに寄せられ、親王が御輿に乗らないうちに身分の低い武士が土足のまま御所に入って御簾を引き落とすなど目も当てられない状況だったようです。
御所を出た親王は、佐助ヶ谷に滞在した後、5日あまりで京へ発ちます。
宵からの雨に加えて風も吹く悪天候の日でしたが、筵(むしろ)に包まれた粗末な網代の御輿に逆さまに乗せられての出発だったといいます。
親王は御輿の中で泣いていたそうです。
惟康親王が京に送還されたことにより、翌月の10月には、後深草院の皇子久明親王が征夷大将軍に任ぜられ鎌倉に下向します。
鎌倉に到着した久明親王は、立派な行列で若宮大路を進んで、御所に入ったようです。
二条は、その年の暮れまで鎌倉に滞在し、善光寺へ向けて旅立っています。