別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2012年1月17日火曜日

源頼朝のための願文・・・上総介広常

源頼朝の挙兵に、二万騎を率いて参陣したという上総介広常

しかし、1283年(寿永2年)12月22日、謀叛の疑いがあるとして、頼朝の命を受けた梶原景時に暗殺されてしまいます。

(参考:暗殺された上総介広常


梶原太刀洗水

広常を討った景時は、この水で太刀の血を洗い流したといいます。


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『吾妻鏡』によれば・・・

1184年(寿永3年)正月17日、上総一宮から、広常が納めた「小桜皮威(こざくらかわおどし)の鎧」が頼朝のもとに届きます。

その鎧には、一通の書状が結びつけてありました。


内容は、

一 三箇年のうちに、神田二十町を寄進すること。

一 三箇年のうちに、神殿の造営をすること。

一 三箇年のうちに、万度の流鏑馬を射ること。

という計画が書かれ、これらの事を行うのは、「頼朝の祈願成就と東国泰平のためのものであること」が書かれていました。


この願文によって、広常に謀叛の心がなかったことが明らかとなり、頼朝広常を殺してしまったことを悔やんだといいます。

そして、捕らえられていた広常の弟天羽直胤、相馬常清らが、広常の忠義に免じて許されました。

しかし、没収された所領については、返還されることはなかったといいます。


上総介塔

横浜市金沢区の朝比奈のバス通りにある五輪塔。


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上総介広常は、謀叛の罪で暗殺されたという説が一般的ですが、果たしてどうだったのでしょうか・・・?

広常の一族の赦免は、「当初から予定されていたことだ」という説もあるようです。

(参考:暗殺された上総介広常


上総広常








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