(小田原市)
ただ・・・
頼朝軍は300騎、対する景親軍は3000騎ですので、どう考えても頼朝に勝ち目はありません。
佐奈田義忠と俣野景久 |
現在の平塚市真田を領していた佐奈田与一義忠は、岡崎義実の子です。
頼朝が頼りにしていた三浦義明は、伯父に当たります。
※「佐奈田」は「真田」とも書きます。
義忠討死の地
(石橋山古戦場)
伝承によると・・・
頼朝の命により先陣を務めた義忠は、大庭景親の弟俣野景久と戦います。
いったんは、景久を組み伏せた義忠でしたが、刀を抜くことが出来ず、景久を助けに来た長尾定景に討たれてしまいました。
(※その前に敵将を討ち取った際に、刀を拭わずに鞘に差したため抜くことが出来なかったそうです。)
義忠が討ち取られた場所は「ねじり畑」と呼ばれていますが、この畑の作物は、全て「ねじれてしまう」という言い伝えが残されているそうです。
(※義忠を討った長尾定景は、のちに源実朝を暗殺した公暁を討ち取る武将です(参考:久成寺)。)
義忠の郎党文三家康も稲毛重成の手勢によって討たれました。
(※のちに頼朝は、稲毛重成の催した橋供養に参列し、帰路落馬して命を落とします(参考:旧相模川橋脚)。)
文三は、主人義忠が討たれると、敵陣に斬り込み8人を討ち取った後、壮烈な死を遂げたと伝えられています。
文三堂は、文三家康を祀るお堂です。
与一塚
義忠が討死した場所には「与一塚」が建てられ、義忠を神霊とする佐奈田霊社が建立されました。
義忠は、「戦いの最中にタンがからみ、助けを呼ぶことが出来ず、それが原因で討ち取られてしまった」という伝説から、咳の神様として親しまれています。
佐奈田霊社では、「佐奈田飴」が売られています。
こちらは、義忠の手附石
『吾妻鏡』によると・・・
1190年(建久元年)正月20日、二所詣でに出掛けた頼朝は、途中、石橋山の義忠と文三の墓に詣でて涙を流したといいます。
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義忠が領していた平塚市真田の天徳寺にある真田尊です。
こちらも義忠は、「タンを喉につまらせたことによって討たれた」という伝説から、ぜんそく、たん、せきの神様として崇められています。
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証菩提寺は横浜市栄区にある寺院です。
頼朝が義忠の菩提を弔うために建立したと伝えられています。
義忠の父岡崎義実の五輪塔もあります。
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義忠の父・岡崎義実
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