その結果、建物跡の遺構が発見され、二代執権北条義時の法華堂跡なのではないかと考えられています。
『吾妻鏡』には、1224年(貞応3年)6月18日の条に、
「戌の刻前の奥州禅門葬送す。故右大将家法華堂東の山上を以て墳墓と為す。」 と記されています。 |
「前の奥州禅門」とは北条義時のことで、「故右大将家」とは源頼朝のことを指しています。
さて、地元では「よしときさん」という「やぐら」が義時の墓として言い伝えられてきました。この法華堂跡のさらに東側の山復にある「やぐら」です。
義時のやぐらと伝えられていた岩窟 https://www.yoritomo-japan.com/yagura-yositoki.htm |
~法華堂建立の禁止~
武家の都として発展し続けた鎌倉の街には、人口が集中していました。
義時の子三代執権北条泰時は、鎌倉の土地は狭いため、墳墓堂として法華堂を建てることを禁止したといいます。
鎌倉に「やぐら」が多い理由の一つとしてその事があげられるようです(参考:鎌倉のやぐら)。
鎌倉時代の鎌倉の人口がどのくらいになっていたのか定かではありませんが、1252年(建長4年)、幕府は、酒の売買の禁令を出しています。
その時、鎌倉中の民家の酒壷37,242壷が摘発されました(参考:商人に関する法令)。
一戸に酒壷が何壷あって、家族数が何人でという計算は不可能ですが、摘発された酒壷の数倍の人口があったものと考えられます。
法華堂跡
https://www.yoritomo-japan.com/page041hokedoato.htm
鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html