別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2011年2月14日月曜日

稲村ヶ崎古戦場

由比ヶ浜七里ヶ浜を分ける稲村ヶ崎

1333年(元弘3年)、鎌倉を攻める新田義貞は、この稲村ヶ崎を突破して鎌倉に入りました。


稲村ヶ崎の石碑

新田義貞は、鎌倉を巨福呂坂仮粧坂極楽寺切通の三方から攻めていましたが、最後は、稲村ヶ崎の突破を考えました。

黄金の太刀を海に投げ入れ、龍神に祈ったという伝説が残されています。

「潮を万里の外に退け、道を三軍の陣に開かしめ給へ」

と祈ると、

「前々更に干る事もなかりける稲村崎、俄に二十余町干上りて」

と伝えられています。


稲村ヶ崎の磯道

かつて、東海道は、七里ヶ浜から稲村ヶ崎の磯を廻って由比ヶ浜に出て、名越から走水、そして海路房総へ渡る道だったといいます。

1223年(貞応3年)に鎌倉に来た『海道記』の作者は、

「稲村といふ所あり、さかしき岩のかさなり臥せる浜をつたひ行けば、岩にあたりてさきあがる浪の花の如くにちりかかる。」

と描いています。

忍性によって極楽寺切通が開かれるまでは、この稲村ヶ崎の磯を廻る道が普通だったと考えられています。




平成14年までは海水浴場がありました。




かながわの景勝50選
光明寺の裏山十王岩江の島稚児ヶ淵、そしてこの稲村ヶ崎が指定されています。



稲村ヶ崎の東側です。

稲村ヶ崎の切通は、昭和13年に開通しました。

昔は稲村ヶ崎霊山山(霊山ヶ崎)はつながっていました。
関東大震災で霊山山の東側が大きく崩れたそうです。
その後、海の埋め立てが始まり、観光道路の建設となります。

稲村ヶ崎の東側には道路の記念碑が建てられています。


稲村ヶ崎
https://www.yoritomo-japan.com/page136inamura.htm
霊山山(霊山ヶ崎)
https://www.yoritomo-japan.com/page136ryozen.htm
鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

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