1333年(元弘3年)、鎌倉を攻める新田義貞は、この稲村ヶ崎を突破して鎌倉に入りました。
稲村ヶ崎の石碑 |
新田義貞は、鎌倉を巨福呂坂、仮粧坂、極楽寺切通の三方から攻めていましたが、最後は、稲村ヶ崎の突破を考えました。
黄金の太刀を海に投げ入れ、龍神に祈ったという伝説が残されています。
「潮を万里の外に退け、道を三軍の陣に開かしめ給へ」
と祈ると、
「前々更に干る事もなかりける稲村崎、俄に二十余町干上りて」
と伝えられています。
稲村ヶ崎の磯道 |
かつて、東海道は、七里ヶ浜から稲村ヶ崎の磯を廻って由比ヶ浜に出て、名越から走水、そして海路房総へ渡る道だったといいます。
1223年(貞応3年)に鎌倉に来た『海道記』の作者は、
「稲村といふ所あり、さかしき岩のかさなり臥せる浜をつたひ行けば、岩にあたりてさきあがる浪の花の如くにちりかかる。」
と描いています。
忍性によって極楽寺切通が開かれるまでは、この稲村ヶ崎の磯を廻る道が普通だったと考えられています。
平成14年までは海水浴場がありました。 |
かながわの景勝50選 光明寺の裏山、十王岩、江の島稚児ヶ淵、そしてこの稲村ヶ崎が指定されています。 |
稲村ヶ崎の東側です。
稲村ヶ崎の切通は、昭和13年に開通しました。 |
関東大震災で霊山山の東側が大きく崩れたそうです。
その後、海の埋め立てが始まり、観光道路の建設となります。
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稲村ヶ崎の東側には道路の記念碑が建てられています。 |
稲村ヶ崎
https://www.yoritomo-japan.com/page136inamura.htm
霊山山(霊山ヶ崎)
https://www.yoritomo-japan.com/page136ryozen.htm
鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html