1224年(元仁元年)6月13日、二代執権北条義時が急死します。
そのため、六波羅探題北方の任に就いていた長男北条泰時が鎌倉に戻り三代執権となります。
泰時の執権就任に関しては、義時の後妻伊賀氏の陰謀事件もありましたが、後ろ盾となってくれていたのが、伯母であり尼将軍と呼ばれた北条政子でした。
しかし・・・
1225年(嘉禄元年)6月10日、源頼朝の鎌倉幕府創設以来、幕府を支えてきた大江広元が亡くなり、翌7月11日には、北条政子も亡くなりました。
この難局に泰時が打ち出したのが、「集団指導制・合議政治」でした。
泰時(右)と時房(左)の花押
まず、「複数執権制」の導入です。
六波羅探題南方の任に就いていた叔父北条時房を鎌倉に呼び戻し、執権に就任させます。
これによって、泰時と時房の2人が執権の地位に就いたことになります(両執権)。
ただし、時房は「副執権」という立場での就任です。
のちに、「副執権」は、執権とならんで署名することから「連署」と呼ばれるようになります。
以後、「連署」の制度は、幕府滅亡の時まで続いています(例外的に連署を欠く時期もありましたが・・・)。
(参考:北条泰時死後の政局と北条時頼~宝治合戦~)
泰時・時房連署の奉書
つぎに泰時は、・・・
三浦義村、二階堂行村と密談し、世を治めるための決定について協議した上で、幕府の奉行人たちを集めて対面し、奉行人の進退については、執権が掌握することを宣言しています。
これは、執権が幕府の実権者であることを明確に打ち出したものと考えられます。
また、源実朝が暗殺された後、摂家将軍として迎えられた三寅(8歳)を、北条義時邸南の仮御所から宇津宮辻子に新造された御所に移します。
そして、1225年(嘉禄元年)12月21日、 「評定衆」を宇津宮辻子の御所に出仕させ、最初の評定会議を開いています。
評定会議は、「両執権」2名と「評定衆」11名の計13名からなるもので、鎌倉幕府の最高機関として位置付けられました(行政・司法・立法のすべてを司る機関)。
「評定衆」には、三浦義村ら有力御家人と中原師員ら事務官僚が選ばれています。
こうして泰時は、新たな組織を創り上げるととともに、鎌倉幕府の新たな時代を切り開きました。
泰時にとって、大江広元と北条政子の相次ぐ死は、大きな痛手となったのは確かですが、一方で、幕府に新風を吹き込む好機だったといえるのでしょう。
常楽寺は泰時が建てた粟船御堂を前身としている寺院。
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2022年の大河は北条義時