18歳のときでした。
この年の1月、日本には、蒙古(元)からの国書がもたらされています。
執権は北条政村でしたが、異国からの侵攻を受けるかもしれないという国難に対処するために、得宗家の時宗を執権とする人事が行われました。
(※そもそも、政村は時宗が成人するまでの間の中継ぎの執権でした。)
~禅に求めた不動心~
時宗は父時頼とともに建長寺の蘭渓道隆に帰依していました。
蘭渓道隆が建仁寺に住持した後は、二世兀菴普寧、三世大休正念の教えを受けていたといいます。
しかし、兀菴は、時頼が死ぬと宋に帰国してしまいます。
そのときの理由は、「時宗はまだ幼年で誠志信敬の心がない」というものだったそうです。
三世の大休正念は、師となることを固辞したといいます。
そして、1278年(弘安元年)7月24日、時宗が師としていた蘭渓道隆が亡くなります。
師を失った時宗は、新たな師を宋の国に求めました。
迎えられたのが無学祖元。
来日した無学祖元は建長寺の五世となります。
1253年(建長3年)、北条時頼によって創建されました。
~無学祖元の臨刃偈(りんじんげ)~
無学祖元は、元の侵攻による難を避けて能仁寺にいましたが、やがてそこにも元の兵がやってきたといいます。
寺僧はみな逃げ出しますが、無学祖元はひとり僧堂に残っていました。
元兵は刀をかざして無学祖元を脅しますが、それに対して・・・
「振りかざされた剣も、生死を超えた身には稲光のあいまに春風を斬るようなものだ」
といったのだといいます。
元兵は、「死をおそれぬ無学祖元の気迫におされ退散していった」という逸話が残されています。
~莫煩悩~
1281年(弘安4年)、日本は元軍による二度目の侵攻を避けられない情勢となります。
苦悩の時宗は、この年の正月、無学祖元を訪ねます。
すると、無学祖元は、紙片に「莫煩悩」(まくぼんのう)という三文字を書き、それを時宗に渡しました。
「迷うことなく信ずるところを行え」
という意味であったといいます。
「蒙古の襲来は、大風が掃蕩してくれるので心配ない」
との説明を加えられたともいいます。
そして、この年、元軍が攻めてきました(弘安の役)。
「莫煩悩」の文字を師より受けた時宗は、元の襲来の報が入ると、無学祖元に「喝」(かつ)という言葉を告げて、自分の決意を示したと伝えられています。
元軍は、閏7月1日、暴風雨に遭い退散。
翌1282年(弘安5年)、北条時宗は、元寇の犠牲者の菩提を弔うために、円覚寺を建立しました。
開山は師の無学祖元です。
北条時宗の廟所です。
時宗は、1284年(弘安7年)4月4日、34歳で亡くなっています。
無学祖元は、1286年(弘安9年)9月3日、建長寺で亡くなりました。
西来庵には、無学祖元の墓があります。
開山無学祖元の塔所です。
もとは建長寺にあったものですが、後醍醐天皇の勅命によって円覚寺に移されたのだといいます。