梶原氏は、源義家に従い後三年の役で活躍した鎌倉権五景政(参考:御霊神社)を祖とする一族といわれています。
代々、源氏に仕えてきましたが、源義朝が平治の乱で敗れると、平家の家人として過ごしていました。
1180年(治承4年)、石橋山の戦いで敗れた源頼朝は山中に逃げ込み、洞窟に隠れていたといいます。
『源平盛衰記』などでは、平家方だった梶原景時は、隠れていた頼朝を発見しますが、大庭景親を欺いて頼朝を救ったと伝えています。
参考:梶原景時と石橋山の戦い
(十二所)
明王院の奥に景時の屋敷があったといわれています。
頼朝の鎌倉開府後、景時は重用されます。
しかし、讒言の名手ともいわれ、多くの武将が景時の讒言によって処分されていきました。
1199年(正治元年)、頼朝が亡くなり、その子頼家が継ぐと将軍独裁の政治が停止され、幕府の政治も宿老13人による合議制へと変化していきます。
そんな中、景時の讒言で結城朝光が追いつめられたと『吾妻鏡』は記しています。
景時は、その讒言がきっかけとなって御家人66名による弾劾に遭い、鎌倉を追放され、1200年(正治2年)正月20日、駿河国で討たれました(梶原景時の変)。
頼朝の死からちょうど1年が経ったときでした。
(※将軍独裁の政治ではなくなったことは、景時も十分承知していたはずですが・・・。)
建長寺の三門梶原施餓鬼は、そんな梶原景時の亡霊を弔うために行われます。
建長寺が開かれて間もない7月15日、三門(山門)下では通常どおりの施餓鬼会が行われていました。
それが終了した直後、武者一騎が駆けつけますが、施餓鬼会が終わったのを見た武者は残念そうに引き上げていったそうです。
開山の大覚禅師(蘭渓道隆)は、すぐに傍らにいた僧にその武者を追わせ、もう一度施餓鬼会を執り行いました。
施餓鬼会が終わり、大覚禅師が武者に問うたところ、「われは梶原景時の霊である」と答えて感謝の言葉を述べながら姿を消したといいます。
それ以来、建長寺では、7月15日の午前中に「三門施餓鬼」を、午後に「梶原施餓鬼」を執り行ってきたといいます。
現在は、午前8時からの約1時間、本山、近在末寺の僧侶が集まって行われています。
三門梶原施餓鬼では、開山蘭渓道隆が宋から持参したという梵語の「般若心経」が唱えられます。