1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵をし、関東武士団を従えて鎌倉入りを果たした源頼朝によって創建されました。
鎌倉入った頼朝が最初に行ったのが、先祖源頼義が勧請した由比郷の鶴岡若宮(元八幡)を現在地の小林郷に遷すことでした。
これが、現在の鶴岡八幡宮ということになります。
当時の鶴岡八幡宮は、神仏習合の宗教施設で、1182年(寿永元年)に造営された源平池などは、浄土思想の影響を受けていると考えられています。
また、1189年(文治5年)には、亡き母(由良御前)の供養のために塔を建立したことが『吾妻鏡』に記されています。この塔は、五重塔だったと考えられています。
(参考:鶴岡八幡宮の五重塔)
しかし、この鶴岡八幡宮が1191年(建久2年)3月4日に焼失してしまいます。
未明に小町大路で発生した火災は、強風にあおられ大火災となりました。
北条義時などの御家人の屋敷を焼き尽くし、鶴岡八幡宮にもその火が燃え移りました。
頼朝は甘縄の安達盛長邸に避難したと伝えられています(安達盛長邸は、長谷の甘縄神明神社の辺りにありました。)。
(参考:建久2年の鎌倉大火・・・鶴岡八幡宮が灰燼と化す)
3月6日、鶴岡八幡宮に参った頼朝は、焼け残った礎石を見て涙したと伝えられています。
当時の考えとしては、神社仏閣の焼亡というのは、その神や仏の威光が衰えたことを意味していたともいわれますので、頼朝の「武家政権の象徴が燃えた」ということのショックは大きかったことと思われます。
ただ、頼朝の行動はす早く、焼失後すぐに再建に向けた工事が行われました。
そして、改めて石清水八幡宮が勧請され、現在のような上宮(本宮)と下宮(若宮)の上下二段の構成となる社殿が再建されました。
本宮 |
火災後、大臣山の中腹を削り取る工事が行われ、そこに本宮が建てられました。
町で起こった火災から防ぐ目的で高台に本宮が造られたと考えられています。
回廊 |
鶴岡八幡宮は、本宮、若宮ともに広い回廊を巡らしていたのが特色でした。
石清水八幡宮と同型式のものです。
現在、本宮の回廊には7基の神輿が安置され、宝物殿にも使用されています。
(神輿は、3基が本宮の神輿で、4基が若宮の神輿です(参考:神幸祭))。
再建された鶴岡八幡宮では、1191年(建久2年)11月21日(旧暦)に遷宮の儀が行われ、「宮人の曲」を唱えさせるために多好方が呼ばれています。
その様子は12月16日(新暦)に行われている「御鎮座記念祭」で再現されます。
後白河法皇から下賜されたという袿五領や籬菊螺鈿蒔絵硯箱などの神宝が、このときに奉納されたと考えられています。
その後本宮は、
1280年(弘安3年)、1296年(永仁4年)、1315年(正和4年)に焼失しますが、その度に再建されています。
そして、現在の本宮は、1821年(文政4年)の火災によって焼失後、1828年(文政11年)、徳川十一代将軍家斉によって造営されたもので、国の重要文化財に指定されています。
楼門 |
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