別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2022年12月17日土曜日

宇治川の戦い~承久の乱~



宇治川は京都防衛上の要衝。

1180年(治承4年)には、以仁王と源頼政が平家軍と戦いました。

1184年(元暦元年)には、源義経が宇治川を突破して木曽義仲を敗走させています。

1221年(承久3年)の承久の乱では、北条泰時が宇治川を突破し、朝廷軍を破りました。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~北条泰時の宇治川の戦い~

1221年(承久3年)5月、後鳥羽上皇の挙兵に対して大軍を上洛させた幕府軍。

『吾妻鏡』によると・・・

6月13日、雨、北条泰時は宇治の栗小山に陣営を張りました。

足利義氏と三浦泰村は、泰時に知らせずに宇治橋で朝廷軍と合戦に及びますが、朝廷軍の発した矢石が雨のように幕府軍の兵たちに降り注ぎ、多くの者が負傷したので平等院に籠ります。

夜になって義氏は、泰時に使者を送ります。

その内容は、

「夜が明けるのを待って合戦に及ぼうと思っていたが、勇敢な兵どもは先陣を争って矢合戦を始めてしまい、多くの死傷者を出している」

というもの。

驚いた泰時は豪雨の中、宇治橋へ向かい、橋上での戦いを止めるように命じています。



平等院


翌14日早朝、前夜平等院で休息をとった北条泰時は、宇治川を渡って戦うこととします。

宇治川は、昨日の雨で水量が増え、水は濁って白波を立てている状況でしたが、浅瀬を探させて、芝田兼義・春日貞幸、佐々木信綱・中山重継・安東忠家らが川を渡り始めました。

これを見た朝廷軍は矢を放ち、芝田兼義と春日貞幸の馬が矢に当たって流され、春日貞幸は水底に沈みますが、心で諏訪明神に祈りながら、腰刀で鎧の帯や小具足を切ってなんとか浅瀬にたどり着いたのだとか。

ただ、貞幸の子や郎党17人が水に流されました。

その後、軍兵の多くが川へ入りますが、流れが急なため、戦う前に流され、関政綱・幸島行時・伊佐為宗・三善康知・長江明義・安保実光をはじめとする96名と、それらに従っていた兵800騎が溺死。

佐々木信綱は、中州から長男の重綱を泰時の陣へと遣わして援軍を求め、泰時の命を受けた子の時氏が六騎を引き連れて川を渡り始めます。

三浦泰村をはじめとする数騎も渡り始めました。

泰時も川を渡ろうとしますが、春日貞幸に「甲冑を身に着けている者は、ほとんど沈んでしまっています。早く鎧を外すように」と言われ、田の畔に下りて鎧を外している間に、乗馬を隠されてしまい、その場に留まったのだとか・・・。

その後、佐々木信綱と北条時氏がほぼ同時に向こう岸に到達。

流されていた芝田兼義も無事に向こう岸に到達。

岸に上がった北条時氏が旗を挙げ、幕府軍と朝廷軍とが合戦を開始しますが、幕府軍は、98人もの負傷者を出しました。

泰時と足利義氏らが筏で渡河すると、武蔵と相模の軍が朝廷軍を攻めます。

朝廷軍は、大将軍の源有雅・源範茂・安達親長などが敗走。

大将軍:藤原朝俊は、八田知尚・佐々木惟綱・小野成時らとともに戦いますが悉く討死。

その他の朝廷軍は戦わずに逃亡しますが、北条時氏が征伐したのだといいます。


※佐々木信綱は、源頼朝に仕えた佐々木定綱の子。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

同日、淀の敵を破った毛利季光三浦義村は深草河原にいた北条泰時と合流。

北条時房は、瀬田橋で朝廷軍と戦って源(大江)親広・藤原秀康・小野盛綱・三浦胤義を敗走させています。

大江親広は関寺のあたりで行方不明に、佐々木高重は誅殺されたのだといいます。


※大江親広は、鎌倉幕府政所別当の大江広元の子。

※佐々木高重は、源頼朝に仕えた佐々木経高の子。

三浦胤義は、三浦義村の弟。


瀬田の唐橋

「瀬田橋を制するものは全国を制す」と言われ、宇治橋とともに京都防衛上の重要な橋だでした。

1184年(寿永3年)の木曽義仲追討では、源範頼が瀬田から攻めて、義仲を粟津で滅ぼしています。




宇治橋


鎌倉との繋がりを求めて。
奈良・京都

瀬田の唐橋

源義経をめぐる京都

歴史めぐり源頼朝





☆ ☆ ☆ ☆ ☆

承久の乱

北条政子の言葉~承久の乱~

宇治川の戦い~承久の乱~


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北条泰時

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北条義時の最期

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宇都宮頼業が活躍した瀬田の合戦~承久の乱~


1221年(承久3年)5月15日、後鳥羽上皇北条義時追討の院宣を下したことで、5月22日、幕府軍は東海道・東山道・北陸道の三道に分けて総勢19万騎で京都に向けて進軍を開始しました。


東海道の大将軍:北条時房北条泰時らは6月12日に近江国野路に到達。

翌13日、時房は雨の中を瀬田へ出陣。




『吾妻鏡』によると・・・

瀬田橋の中ほどの二間分の敷板が引き落とされ、その向こうには楯を並べ弓矢を構えた朝廷軍と比叡山の僧兵達が並んでいました。

『承久記』によると・・・

朝廷軍の大将は山田重忠

幕府軍は橋を渡ろうと攻め込みますが、朝廷軍に矢を射かけられ、僧兵には長刀で切り落とされてしまいます。

この攻防で、幕府軍の主力の一人だった熊谷直国(熊谷直実の子)が討たれました。

その中で、宇都宮頼業(宇都宮頼綱の子)は遠矢を射て戦います。

そこへ、信濃国の住人福地俊政と書き付けられた矢が頼業の冑の鉢に当たります。

放ってはおけぬと頼業も自分の名を記した矢を放ちます。

すると、矢は三町余り(300メートル以上)も飛んで大将の山田重忠の傍に突き刺さったのだとか・・・

その後、朝廷軍は船から幕府軍を攻めますが、頼業に法師二人が射られると退いていったのだといいます。

それは見た時房が「戦いは今日ばかりではない。矢種を尽くさないように」と命じたので、この日の戦いは終わったのだそうです。



かつては、「瀬田橋を制するものは全国を制す」と言われ、京都防衛上の重要な橋でした。

1184年(寿永3年)1月20日、源頼朝木曽義仲を追討する際には、源範頼が瀬田から、源義経が宇治から京へ入り、義仲を粟津で滅ぼしています。

1221年(承久3年)の承久の乱では、6月14日、北条時房率いる幕府軍が瀬田橋で朝廷軍を敗走させて、京市中へ進軍しました。



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2022年12月15日木曜日

北条義時追討の宣旨に対する返書


『吾妻鏡』によると・・・

1221(承久3年)5月27日、北条義時は、院の使い(押松丸)を京都へ返します。

押松丸は、5月15日に発せられた「義時追討の宣旨」を持って鎌倉に潜入し捕らえられていました。

押松丸には、宣旨に対する返書を持たせています。


『北条九代記』によると、その内容は・・・

「義時は院に忠義を尽くしてまいりましたのに、讒言をお信じになられたことで、違勅の者とされました。

そのため、弟の時房、子の泰時・朝時をはじめとする十九万騎の軍勢を上洛させます。

それでもお考え違いなさっているときは、子の重時・政村をはじめとする二十万騎を率いて、義時自身が参上いたしましょう」


『吾妻鏡』・『北条九代記』によると・・・

6月1日、京都に着いた押松丸は御所に参上。

「義時の首は誰が取った?」

「義時はどこへ逃げた?」

という質問が相次いだのだといいます。

後鳥羽上皇も関東の情勢について尋ねますが・・・

押松丸が「三浦胤義の手紙を三浦義村が受け取って義時に見せてからは、鎌倉が騒然とし、諸国から兵が集まり、官軍と戦うために上洛してくる関東武士は幾千万にも及びます」

と報告すると、院中の人々は驚くほかなかったのだといいます。


「承久記絵巻」
 
三浦義村北条義時に弟胤義から送られてきた手紙を見せる場面。

『吾妻鏡』によると、胤義が義村に送った手紙には「勅命にしたがって義時を追討するように」と書かれていたのだといいます。







承久の乱

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2022年12月14日水曜日

北条泰時出陣~承久の乱~




1221年(承久3年)5月15日、幕府打倒の挙兵をした後鳥羽上皇は、北条義時追討の宣旨を発します。

これに対し、幕府では、北条政子が「故右大将(源頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い・・・」と説いて御家人の結束を固めます。

御家人らが参集した会議では、足柄峠と箱根山に関を設けて朝廷軍を迎え撃つという作戦も出されますが、大江広元が上洛すべきと主張。

さらに、北条政子は「すみやかに上洛せよ」と命じます。


そして・・・

1221年(承久3年)5月22日早朝、北条泰時が18騎で出陣。

何故、たった18騎だったのか?

それは、その前日に、こんなやりとりがあったからのようです。

「上洛することを決定してから、日が経ち過ぎたので、いろんな異議が出てくる頃です。

皆の気が変わる前に、総大将の泰時さまが一人でも出陣すれば、関東の御家人は悉く、雲が龍に従うが如く従ってくるでしょう」

大江広元が主張したから。

このことを政子三善康信に問うと、

「まず、京へ向けて出陣するべき」

と答えたのだといいます。


それを受けた義時は、直ちに泰時に出陣するよう命じています。

この夜、泰時は稲瀬川の藤沢清親の屋敷に泊まったのだとか。


泰時の出陣によって、関東の御家人は悉く京へ向けて出発。

その数は19万騎に達したそうです。


『吾妻鏡』より。




承久の乱

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