別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2022年11月26日土曜日

鶴岡八幡宮の紅葉・黄葉の様子2022/11/25


早くから色づいていた木は落葉が始まりました。

境内全体が一気に色づくためには気温が高すぎるようです。

ピークは12月上旬かもしれません。

















鶴岡八幡宮の紅葉







☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉の紅葉


源氏山公園の紅葉

源氏山公園の紅葉

旧一条恵観山荘の紅葉

本堂後庭園:北鎌倉明月院

長壽寺の特別拝観

長谷寺ライトアップ


北鎌倉の紅葉


鎌倉殿の13人


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2022年11月25日金曜日

伊豆の国市で公開された源頼朝像




静岡県島田市にある智満寺に聳えていた頼朝杉で制作された源頼朝像

2022年(令和4年)11月23日、韮山文化センターで特別公開されました。
















今後、東京ビックサイトで開催される「エコプロ2022」に出展され、来春には鶴岡八幡宮に奉納される予定。

「エコプロ2022」

12月7日(水)~9日(金)




智満寺の頼朝杉と頼朝像


源頼朝像と厨子



源頼朝配流の地・北条氏発祥の地

北条の里~頼朝・時政・政子めぐり~








☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2022年の大河ドラマ
鎌倉殿の13人

二代執権北条義時


特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編

特集!「鎌倉殿の13人」鎌倉編


歴史めぐり源頼朝


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2022年11月23日水曜日

右大臣拝賀の日・・・暗殺された源実朝

1219年(建保7年)1月27日、鶴岡八幡宮では源実朝の右大臣拝賀式が行われました。

この日は晴れていましたが夕刻になって雪となり7,80㎝積もったそうです。




『吾妻鏡』によると・・・

大江広元は実朝に、「私は成人してから涙を浮かべたことがありませんでした。しかし今、涙を止めることができません。これはただ事ではありませんので、何か起こるかもしれません。東大寺供養の際の頼朝様の例にならって、束帯の下に腹巻(鎧)を着けていかれるとよいでしょう」と言いました。

しかし、源仲章は「大臣大将にまで昇った人で、未だそのような式に出た人はありません」といって止めたのだといいます。


実朝の髪を梳かしていた宮内公氏は、一筋の髪の毛を記念にもらったそうです。

そして、庭の梅の木を見た実朝は、「出テイナハ主ナキ宿ト成ヌトモ軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ」(主人のいない家になってしまうが、花を咲かせることを忘れるな)と詠んだのだそうです。




源実朝は午後6時頃、雪の中を鶴岡八幡宮へと出発します。

南門を出るときには霊鳩が鳴きさえずっていたといいます(源氏にとって鳩は特別な鳥です。)。

車から降りるときには、刀を折ってしまったそうです。




参拝を終えた実朝が石段の上にさしかかると、甥で鶴岡八幡宮の別当だった公暁が襲いかかります。

「父の敵を討った」という名乗りをあげたのを聞いた者がいるともいいます。

石段下にいた御家人がすぐに駆けつけますが、すでに公暁の姿はありませんでした。


実朝の首を取った公暁は、後見人の備中阿闍梨の雪ノ下北谷の家に行き、食事の間も実朝の首を放さなかったといいます。

そして、公暁の乳母子弥源太を三浦義村邸に遣わし、「今、将軍の席が空いた。次は自分が将軍となる順番だから、早く方策を考えよ」と指示しています。


これに対し、義村は、「すぐに屋敷に来る」よう伝える一方で、北条義時に連絡をとっています。

義時から公暁を殺すよう命ぜられた義村は、長尾定景を差し向けます。

山越えをして義村邸に向かっていた公暁は、定景によって討ち取られ、首は義時邸に運ばれたということです。


公暁がどこに葬られたのかは不明です。

また、公暁が持っていた実朝の首の行方も定かではありません。




翌日、実朝の亡骸は勝長寿院に葬られました。

がないので代わりに髪の毛が棺に納められたのだといいます。




(秦野市)

秦野市には実朝の首が埋葬されたという場所があります。

公暁が持ち去った実朝の首は、三浦義村の家臣武常晴が拾い上げ、波多野氏を頼ってこの地に葬ったと伝えられています。



実朝の妻・坊門信子邸は壽福寺で出家し、京へ戻って実朝の菩提を弔うために大通寺を創建しました。




源実朝の暗殺

源実朝が暗殺された日

北条義時と戌神将の伝説








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2022年の大河ドラマ
鎌倉殿の13人

二代執権北条義時


承久の乱

北条政子の言葉~承久の乱~


北条泰時


後鳥羽上皇


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2022年11月22日火曜日

時代を変える戦い「承久の乱と関ケ原」




☆ ☆ ☆ ☆ ☆


不破関跡


不破関は、672年に起こった壬申の乱の翌年に設置された関所。

飛鳥浄御原宮を守るために設置されたもので、789年(延暦8年)に廃止されたが、国内騒乱などの非常時には関所を警固する固関使が派遣されていた。

不破関を境に関東・関西の呼称が使われるようになったともいわれている。

1221年(承久3年)、北条義時打倒の承久の乱を起こした後鳥羽上皇は、固関使を任命して不破関を守らせたと伝えられるが・・・

藤原秀康をはじめとする朝廷軍は、摩免戸の戦い・杭瀬川の戦いで大敗を喫し、総崩れとなって退却している。


垂井宿


『吾妻鏡』によると・・・

朝廷軍を退けた幕府軍の大将軍北条時房北条泰時は、6月7日、東山道・東海道の軍隊を野上・垂井の宿に布陣させた。

軍議では三浦義村が、

北陸道の大将軍(北条朝時ら)が上洛する前に軍兵を東へ遣わし、

「勢多」は北条時房

「手上」は安達景盛武田信光

「宇治」は北条泰時

「芋洗」は毛利季光

「淀の渡し」は結城朝光三浦義村

が向かうという案を出すと、

泰時は了解し、皆異議はなかったのだという。

翌8日には摩免戸の戦いでの大敗が後鳥羽上皇に知らされている。


旧中山道

美濃一之宮南宮大社の鳥居





承久の乱


後鳥羽上皇

北条政子の言葉~承久の乱~

宇治川の戦い~承久の乱~

瀬田の合戦~承久の乱~








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