別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2022年7月6日水曜日

石山寺と中原親能・亀谷禅尼


石山寺毘沙門堂


『石山寺縁起』によると・・・

建久の頃、源頼朝に山城国和束の反乱を鎮めるよう命じられた中原親能は、石山寺で祈願。

すると毘沙門天が現れ、その加護によって反乱を鎮圧できたのだといいます。

親能は、その恩に報いるため、石山寺に勝南院を建立したのだそうです。



石山寺宝篋印塔


亀谷禅尼は中原親能の妻。

源頼朝の次女三幡の乳母を務めました。

剃髪後に石山寺に住して宝塔院を建立し、本尊の大日如来の胎内に頼朝の髪を収めて日々勤行したのだといいます。


中原親能


石山寺







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平家の直系六代御前と文覚の伝説




六代御前とは、壇ノ浦に沈んだ平維盛の子高清のこと。

「六代」という呼び名には、平正盛から数えて六代目の直系という意味があるといいます。


1183年(寿永2年)、木曽義仲に攻められた平家一門は「都落ち」しますが、維盛は妻子を都に残していったそうです。

この時点で維盛は「平家の時代は終わった」と思っていたのかもしれません。

あの平重盛の子ですから、先々まで読んで行動していたでしょう。

そして、1185年(文治元年)3月、平家は壇ノ浦で滅亡。

六代御前は、源頼朝の命によって平家の残党を探索していた北条時政によって捕らえられてしまいました。

しかし、本来であれば、鎌倉に送られて斬首されるはずの六代御前は、文覚によってその命を救われます。

『平家物語』の伝えるところによれば、文覚頼朝に助命嘆願し、「赦し文」を手に入れたとなっておりますが、

『吾妻鏡』によると、

文覚の弟子によって、

「六代御前は文覚の弟子であるのに斬首しようとしている。

祖父の重盛はあなたの命を助けてくれた方でしょう。

重盛への恩と文覚との縁をもって、文覚に預けてもらいたい。」

という内容の事が伝えられたようです。

そして、文覚の申し分を無視するわけにもいかないので、「当分の間、文覚に預ける」とした旨の手紙が北条時政の所へ送られたようです。


いずれにしても、命を助けられた六条御前は、出家して「妙覚」となり、「三位禅師」と呼ばれるようになります(父維盛は「三位右近衛権中将」だった。)。

1194年(建久5年)、鎌倉を訪れた妙覚が頼朝に謁見したとも伝えられています。

しかし、1199年(建久10年)1月13日、妙覚を助けた頼朝がこの世を去ります。

それから、わずか1ヶ月後、最大の庇護者である文覚「三左衛門事件」の際に捕らえられ佐渡国流罪となりました。

そして、妙覚も捕らえられ、田越川で処刑されたと伝えられています。

いつ捕らえられ、いつ処刑されたのかは不明です。

文覚は、佐渡国流罪後に許されますが、再び捕らえられ対馬国に流される途中に死んだというのが通説となっています(1205年(元久2年))。






源頼朝

源頼家







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2022年7月5日火曜日

開花した中尊寺ハス~鎌倉:永福寺跡~2022/07/06




昨年から永福寺跡に置かれている中尊寺ハス

2、3日前に開花したようです。



先週の土曜日に確認した時は枯葉が目立ちましたが、かなりサッパリしました。

7月2日の様子




この蕾も2、3日のうちに開花しそうです。










中尊寺ハス

奥州平泉








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ハス


鶴岡八幡宮のハス

光明寺のハス

光明寺観蓮会


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源頼朝の死と二代鎌倉殿・源頼家と三左衛門事件


晩年の源頼朝は・・・

1195年(建久6年)、東大寺大仏殿の落慶供養に参列するため上洛した頼朝は、長女の大姫を入内させるため反幕派の丹後局と源通親に接近しましたが、1197年(建久8年)7月14日、大姫が亡くなり、頼朝の夢は断たれました。

その間、それまで頼朝と協力体制を築いてきた親幕派の九条兼実が失脚。

1198年(建久9年)には、通親の養女が産んだ土御門天皇が即位し、反幕派の通親が天皇の外戚として権勢を強めることとなります。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

そうした情勢の中で、1199年(建久10年)1月13日、頼朝が死去。

その頃の通親は、自らが頼朝が任官していた右近衛大将に就任するにあたって、幕府の反発を和らげるために頼朝の嫡子・頼家を左近衛中将に昇進させようと考えていたようです。

ただ、頼朝の死によって、頼家が喪に服すこととなるので、頼家の左近衛中将任官を延期せざるを得ない状況となります。

ところが・・・

『吾妻鏡』によると、1月20日、頼家は左近衛中将に任官されます。

1月26日には、

「前征夷大将軍源頼朝の跡を継いで、これまでのように諸国守護を奉行せよ」

という宣旨が下されています。

通親は、頼朝の死を知りながら、その死が公表される前に、自らの右大将就任と頼家の昇進の手続きを取ったのだといいます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

しかし、その直後から京都は緊迫した情勢となり、一条能保の郎等が通親の襲撃を企て、命の危険を感じた通親が院御所に立て籠もるという事態となってしまいます。

一条能保は、頼朝の姉妹・坊門姫の夫で、頼朝から全幅の信頼を寄せられていた公卿。

1197年(建久8年)10月13日に死去し、嫡子の高能も同年9月17日に死去していましたが、一条家が頼朝の死によって冷遇されると考えた家人らが通親襲撃を企てたのだといいます。

これに対して幕府は、大江広元が中心となって通親支持を表明し、2月14日には、後藤基清・中原政経・小野義成が捕えられました。

この事件は、捕らえられた3名がいずれも左衛門尉であったことことから、三左衛門事件と呼ばれています。

その後、事件関係者とみられる西園寺公経・持明院保家・源隆保が出仕を止められ、頼朝と親交のあった文覚も連座して検非違使に身柄を引き渡されました。

2月26日には、中原親能が上洛して騒動の処理を行ったことで、京都は落ち着きを取り戻したのだと伝えられています。


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『吾妻鏡』によると・・・

3月5日、三左衛門の一人・後藤基清の讃岐の守護職が解任され、後任には近藤国平が置かれます。

頼朝の時代に定められた事を改めた最初の出来事となりました。

このことについて『北条九代記』は、

「この改任は危険な事で政治が乱れるだろう」と人々が避難したと記しています。

『吾妻鏡』には、「改め被るの始」と記され、先例を改める事は良くない事が起こる前兆という意味が込められているのだとか・・・

『吾妻鏡』と『北条九代記』には、後藤基清の処分とあわせて、頼朝の二女三幡が病気となってしまったことが記されています。





源頼朝

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三浦義澄が信仰した住吉神社~横須賀~




横須賀市久里浜の住吉神社は、三浦水軍の船霊として信仰された神社。

1180年(治承4年)8月、衣笠城を脱出した三浦義澄は住吉神社で祈願し、源頼朝に合流するため安房へ向けて出航したのだと伝えられています。





三浦義澄


小坪・衣笠合戦

源頼朝鎌倉入り








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