別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2022年7月5日火曜日

北条時房の烏帽子親・佐原義連が建てた満願寺~横須賀~




横須賀市の満願寺は、三浦義明の末子十郎義連が建立した寺院。


佐原義連の墓


義連は、源義経に従った一ノ谷の戦い鵯越で「三浦にとっては馬場も同然」といって真っ先に駆け下りたという武将。

源頼朝の命で北条時政の三男(のちの時房)の烏帽子親になりました。





一ノ谷の戦い


北条時房








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源頼朝が三浦義明の追善のために建てた満昌寺~横須賀~




満昌寺は、1194年(建久5年)、源頼朝三浦義明の追善のために建立した寺。


1180年(治承4年)8月、伊豆国で頼朝が挙兵すると、義明は一族を石橋山に送ります。

しかし、三浦軍は雨によって増水した酒匂川を渡ることができず、その間に頼朝は石橋山の戦いで大敗してしまいました。

仕方がなく兵を引いた三浦軍でしたが、帰路の由比ヶ浜で、当時まだ平家方の大庭景親に従っていた畠山重忠軍に遭遇してしまいます。

三浦軍と畠山軍は、戦うつもりはなかったようですが、杉本城(鎌倉杉本寺)を守っていた和田義茂が、三浦軍が攻められていると勘違いし、畠山軍を攻めたため合戦となってしまったのだとか。

辛うじて畠山軍を退けた三浦軍は衣笠城に辿り着きますが、日を置いて、重忠は衣笠城に攻め込んできました。

敗戦が確実となったとき、義明は子の義澄らに対し、逃れて頼朝に従うことを諭し、自らは城に残り自刃したのだと伝えられています。










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源頼朝挙兵



石橋山の戦い


歴史めぐり源頼朝








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2022年7月4日月曜日

源頼朝墓と白旗神社




1199年(建久10年)1月13日に53歳で亡くなった源頼朝

1189年(文治5年)、奥州征伐の祈願所として伊豆山権現の專光房良遷に建立させた持仏堂に葬られました。

以後、持仏堂は法華堂と呼ばれるようになります。

法華堂の本尊は、頼朝が京都の清水寺から賜った聖観音像

源氏重代の太刀「髭切」(ひげきり)も法華堂に納められていたと伝えられています。




1200年(正治2年)1月13日、法華堂で営まれた一周忌には、北条時政以下の御家人が参列。
導師は、我が国臨済宗の開祖栄西でした。

この時、北条政子は自らの髪の毛を除髪して刺繍したという「梵字の曼荼羅」を納めています。

伊豆山神社に伝えられている「頭髪梵字曼荼羅」がそれだともいわれています。


頼朝の法華堂は残されていませんが、跡地といわれる場所には墓塔が建てられています。





いつのころからかわかりませんが、頼朝墓の下には法華堂が建てられ、鶴岡八幡宮相承院(二十五坊の一つ)が別当を勤めていたそうです。

明治の神仏分離で法華堂は廃され、頼朝を祀る白旗神社となりました。







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甲斐善光寺の源頼朝像


源頼朝像


甲斐善光寺に伝えられる「木造源頼朝坐像」は、「文保3年」(1319年)の銘があるもので、源頼朝の最古の彫像といわれています。

銘文には、頼朝の命日である「正治元年正月13日」という日付も確認されていて、頼朝の彫像であることは間違いないとされています。

また、「尼二位」の文字も読み取れることから北条政子が造らせた像ではないかとも考えられているようです。

※政子は1218年(建保6年)に従二位に叙せられています。


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~信濃善光寺にあった頼朝像~


頼朝像は、信濃善光寺にあったもの。

信濃善光寺は1179年(治承3年)に焼失し、源頼朝が再興しました。

1197年(建久8年)には自らも参詣しているのだといいます。

その後、信濃善光寺は、1268年(文永5年)と1313年(正和2年)に火災に見舞われています。

これらの火災で頼朝像も被害を受けたものと考えられ、銘の「文保3年」(1319年)は、その修理が完成したことを示すものと考えられているようです。

北条政子が造らせたという説と併せて考えれば、頼朝が亡くなった1199年(正治元年(建久10年))から政子が亡くなった1225年(嘉禄元年)の間に造像されたもの、ということになるのでしょう。


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~甲斐善光寺に頼朝像がある理由~


何故、甲斐善光寺に頼朝像があるのでしょう?。

甲斐善光寺は、武田信玄上杉謙信との川中島の戦い信濃善光寺が焼失してしまうことをおそれ、信濃善光寺の本尊(善光寺如来)を甲斐国に移してきたことに始まります。

その際、多くの寺宝とともに頼朝像も信濃から甲斐に移されたようです。

武田氏が滅びると、善光寺如来は各地を転々とした後、信濃に戻りますが、頼朝像はそのまま甲斐に残されました。


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甲斐善光寺

信濃善光寺







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2022年7月3日日曜日

鶴岡八幡宮の大銀杏2022/07/02




1219年(建保7年)正月27日、源実朝が甥の公暁に暗殺されます。

徳川光圀の『新編鎌倉志』によると、公暁は大銀杏に隠れていたのだとか。

その大銀杏は、2010年(平成22年)3月10日未明に倒れてしまいましたが、根や幹から出た芽が成長を続けています。








源実朝の暗殺


源実朝


鶴岡八幡宮









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