源頼朝像
甲斐善光寺に伝えられる「木造源頼朝坐像」は、「文保3年」(1319年)の銘があるもので、源頼朝の最古の彫像といわれています。
銘文には、頼朝の命日である「正治元年正月13日」という日付も確認されていて、頼朝の彫像であることは間違いないとされています。
また、「尼二位」の文字も読み取れることから北条政子が造らせた像ではないかとも考えられているようです。
※政子は1218年(建保6年)に従二位に叙せられています。
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~信濃善光寺にあった頼朝像~
頼朝像は、信濃善光寺にあったもの。
信濃善光寺は1179年(治承3年)に焼失し、源頼朝が再興しました。
1197年(建久8年)には自らも参詣しているのだといいます。
その後、信濃善光寺は、1268年(文永5年)と1313年(正和2年)に火災に見舞われています。
これらの火災で頼朝像も被害を受けたものと考えられ、銘の「文保3年」(1319年)は、その修理が完成したことを示すものと考えられているようです。
北条政子が造らせたという説と併せて考えれば、頼朝が亡くなった1199年(正治元年(建久10年))から政子が亡くなった1225年(嘉禄元年)の間に造像されたもの、ということになるのでしょう。
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~甲斐善光寺に頼朝像がある理由~
何故、甲斐善光寺に頼朝像があるのでしょう?。
甲斐善光寺は、武田信玄が上杉謙信との川中島の戦いで信濃善光寺が焼失してしまうことをおそれ、信濃善光寺の本尊(善光寺如来)を甲斐国に移してきたことに始まります。
その際、多くの寺宝とともに頼朝像も信濃から甲斐に移されたようです。
武田氏が滅びると、善光寺如来は各地を転々とした後、信濃に戻りますが、頼朝像はそのまま甲斐に残されました。
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