別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2022年5月30日月曜日

八重姫の最期~鎌倉殿の13人第二十一話~


「鎌倉殿の13人」第21話では・・・

八田知家が連れてきた孤児を助けようとした八重姫が亡くなりました・・・


次回は上洛征夷大将軍実朝誕生富士の巻狩り曽我兄弟の仇討ち




(伊東市)

音無神社が鎮座する「おとなしの森」は、源頼朝八重姫が逢瀬を重ねたという場所。


(伊東市)

音無神社の裏を流れる松川の対岸には「ひぐらしの森」がありました。

源頼朝が日暮れになるのを待った場所なのだとか・・・

日暮八幡神社は、「ひぐらしの森」に鎮座します。


(伊東市)

やがて二人は千鶴丸を授かりますが・・・

千鶴丸は八重姫の父伊東祐親に殺されてしまいます。

千鶴丸の遺体は、富戸の海岸に流れ着いて、甚之右衛門という漁師に葬られたのだと伝えられています。

産衣石は、千鶴丸の伝説が残された石。


(伊東市)

三島神社は千鶴丸が祀られている神社。


(伊東市)

最誓寺は、北条義時八重姫の発願により創建された真言宗の西成寺が始まりという寺院。

本堂には、八重姫が奉納したという千鶴丸地蔵菩薩像が安置されているそうです。


(伊豆の国市)

ただ・・・

伊豆の国市の伝説では、八重姫は頼朝が北条政子と結ばれたことで悲しみ、入水したことになっています。

真珠院の八重姫御堂は八重姫を祀る堂。


(伊豆の国市)

真珠院では毎年4月の第二日曜日に八重姫梯子供養祭が行われています。



八重姫

千鶴丸

江間小四郎義時


伊東で源頼朝伝説

源頼朝配流の地・北条氏発祥の地

北条の里~頼朝・時政・政子めぐり~


歴史めぐり源頼朝







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2022年の大河ドラマ
鎌倉殿の13人

二代執権北条義時


特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編

特集!「鎌倉殿の13人」鎌倉編


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2022年5月29日日曜日

伊豆の国市真珠院~八重姫御堂のある寺~



真珠院は、源頼朝の最初の妻八重姫を祀る御堂がある寺。




八重姫御堂

平治の乱後、伊豆に流された源頼朝は、伊東祐親の監視下にありました。

祐親が大番役で上洛すると、頼朝は祐親の娘八重姫と密会を繰り返し、やがて千鶴丸という男子を授かります。

しかし、大番役から帰った祐親の怒りに遭い、千鶴丸は殺され、頼朝は北条時政の許へ逃げ込みます。

頼朝を忘れられない八重姫は、伊東館を抜け出して頼朝がいる北条館を訪ねますが、頼朝は時政の娘政子と結ばれていたのだそうです。

悲しんだ八重姫は真珠ヶ淵に身を投げたのだと伝えられています。

八重姫御堂には、八重姫の木像と供養塔が納められています。


梯子供養

「せめて梯子があれば八重姫を救うことができた」という里人たちの気持ちが、願い事が成就したときに、そのお礼参りとして梯子を供える習慣として残されるようになったのだといいます。

願かけ石

自分の歳の数だけ石をたたくと願い事が必ず成就すると伝えられています。


八重姫慕情

桜吹雪に 木洩れ陽の
揺れて無情の 憂いあり
伊豆韮山の 中條に
立てば遠き 空の果て

侍女に守られ 八重姫は
頼朝公を 御慕い
悲恋はかなく 落葉舟
真珠ヶ淵の 渦の中

里人出でて 走れども
岸高くして 底深く
夕暮れせまり いかにせん
救わせたまえ 姫の身を

那木の木末の そよぐ下
供養の塔に かけられし
小さき梯子 数いくつ
治承の昔 偲ばれる


八重姫主従七女之碑

八重姫:治承4年7月16日真珠ヶ淵に入水。

侍女:同日大仁田中山にて自害


本堂




五輪塔

摩崖仏



八重姫


伊東祐親


北条の里~頼朝・時政・政子めぐり~


歴史めぐり源頼朝







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伊豆・箱根

源頼朝配流の地・北条氏発祥の地

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鎌倉殿の13人

二代執権北条義時


特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編

特集!「鎌倉殿の13人」鎌倉編


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捕虜の由利八郎に傲慢だった梶原景時と礼儀を尽くした畠山重忠


1189年(文治5年)の奥州征伐での事。

9月7日、宇佐美実政が捕虜にした藤原泰衡の家来の由利八郎(維平)を連れて、源頼朝が陣を敷く陣岡にやってきた。

ところが、天野則景が生け捕ったのは自分であると主張。

頼朝は、二階堂行政に命じて、双方の馬の毛並みと鎧の威し紐の色を書き出させ、真偽を確かめるため梶原景時に由利八郎を尋問するよう命じる。



景時は立ったままこう質問した。

「お前は泰衡の郎従の中で名のある武将なのだから、真偽を取り繕う必要はない。

正しい事だけを申せばよい。

何色の鎧の者が、お前を生け捕った?」

怒った由利は、

「お前は、頼朝殿の家人か。

今の物言いは、身分をわきまえないもので例えようもない。

藤原秀衡様は、藤原秀郷の直系子孫。

奥州藤原氏三代は鎮守府将軍を拝命した家系。

お前の主人である頼朝殿も、そのような言葉は発しないはずだ。

また、お前と我は対等の身分であって、どちらが上ということはない。

運悪く捕虜となるのは、勇士にはよくある事。

それを、このような奇怪を表されては、申すことはない」

と反発したのだという。 

顔を真っ赤にた景時は、頼朝に、

「あの男は、悪態をついてばかりで、糾明のしようがありません」

と申し上げると頼朝は、

「景時が無礼な態度をとったので、怒っているのだろう。

確かに道理が通っている。

畠山重忠に質問させるように」

と命じた。


由利の前に出た重忠は、持ってきた敷皮に座って、礼を表してから、

「弓馬に携わる者が、敵に捕われることは中国でもこの日本でも常のことで、恥ずかしいことではありません。

永暦年中には、故源義朝様は横死しました。

頼朝様も捕虜となって六波羅へ連行され、伊豆国へ流罪となりました。

それでも、よい運にめぐりあい、天下を取ることになりました。

今、貴殿は捕虜の身ですが、これから先も悲惨な状況にあるということはないでしょう。

貴殿は、奥六郡で武士としての誉れが高く、かねてよりその名を聞いていました。

そのため、二人の者が貴殿を捕えた手柄を主張しあっています。

貴殿の発言で二人の手柄の有無が決まるのですが、何色の鎧を着た者に生け捕られたのか教えて頂きたい」

と質問すると、由利は、

「貴殿は畠山殿ですか。

礼儀を心得ておられ、先ほどの礼儀知らずの男とはちがうので、申し上げましょう。

黒糸威しの鎧を着た鹿毛の馬に乗った者に馬から引きずり落とされました。

その後、追いかけてきた者は多く、見分けがつきませんでした」

と答えたのだという。

「黒糸威しの鎧と鹿毛の馬は、宇佐美実政」

重忠は、そう頼朝に報告している。


その後、由利は重忠に預けられた。



畠山重忠

奥州征伐~奥州藤原氏の滅亡~







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奥州平泉

源義経

歴史めぐり源頼朝


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畠山重忠の武士の精神~奥州征伐:阿津賀志山の戦い~


(武蔵御嶽神社)


『吾妻鏡』によると・・・


1189年(文治5年)7月19日、奥州平泉の藤原泰衡を討つため出陣した源頼朝は、8月7日、陸奥国伊逹郡阿津賀志山の国見駅に到達。

翌朝、阿津賀志山(厚樫山)の奥州軍を攻撃するよう命じ、畠山重忠が率いてきた人夫80名に鋤鍬で土砂を運ばせて堀を埋めさせている。


8月8日卯の刻(午前6時頃)、畠山重忠小山朝光加藤景廉・工藤行光・工藤祐光が進軍して戦端を開き、金剛別当秀綱率いる数千騎と合戦。

巳刻(午前十時)には秀綱は退却した。

同じ頃、石那坂の戦いでは伊佐為宗が佐藤基治(佐藤継信・佐藤忠信の父)を破っている。


8月9日夜、頼朝は翌朝に阿津賀志山を越えて合戦をするよう命じた。

すると、三浦義村葛西清重・工藤行光・工藤祐光・狩野親光・藤沢清近・河村秀清の七騎は、畠山重忠の陣を追い越して山を越えて先頭に出ようと考えた。

そのことを重忠の郎党が七騎の前を塞ぐよう注進すると、重忠は、

「その必要はない。

たとえ、連中の武力で敵が退散したとしても、先陣は重忠が賜っているのだから、功績はすべて重忠のものになるだろう。

また、一番乗りを競い戦おうとしている連中の邪魔をするのは、武士の精神に反する」

と答え、落ち着いていたのだという。


8月10日、畠山重忠小山朝政小山朝光下河辺行平三浦義澄三浦義連加藤景廉葛西清重らの本軍が大木戸を総攻撃。

奥州軍は激しく抵抗したが、小山朝光が金剛別当を討ち取り、総大将の藤原国衡は、和田義盛の矢で射られ、畠山重忠の家臣・大串重親に討ち取られた。



畠山重忠

奥州征伐~奥州藤原氏の滅亡~







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