別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2022年5月25日水曜日

松尾芭蕉の墓~義仲寺~


松尾芭蕉の墓


1689年(元禄2年)秋、「おくのほそ道」の旅の終盤、

越前で木曽義仲が築城させたという燧が城を見た芭蕉は、かつて義仲が破竹の勢いで京都へ進撃していった事を回想したのだといいます。

この時、

「義仲の寝覚めの山か月悲し」

と詠んだのだとか。


「おくのほそ道」の旅を終えた年末、芭蕉は義仲が葬られている義仲寺無名庵で過ごします。

その後も度々義仲寺を訪れていたといいます。


1694年(元禄7年)10月12日、大坂御堂筋の旅宿「花屋仁左衛門」で没。

遺言により義仲寺に葬られました。



無名庵

芭蕉が滞在した庵。

1691年(元禄4年)、無名庵の芭蕉を訪ねた伊勢の俳人・島崎又玄は「木曽殿と背中合わせの寒さかな」と詠みました。


翁堂

正面祭壇に芭蕉翁座像、左右に丈艸居士、去来先生の木造、側面に蝶夢法師胸像が置かれ、左右壁上には三十六俳人の画像が掲げられています。



義仲寺


松尾芭蕉のおくのほそ道








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2022年5月24日火曜日

義経の首と頼朝の五重塔




藤沢市には義経首洗井戸が残されています。


『吾妻鏡』によると・・・

奥州平泉で自刃した源義経の首は、腰越の浜和田義盛梶原景時が実検しました。

伝説によると・・・

その後、捨てられた義経の首は、この地に漂着。

村人がこの井戸の水で洗い清めたと伝えられています。

清められた首が葬られた「首塚」もあったそうです。

のちに「首塚の北の山上に営まれた社が白旗神社である」という説もあります。





義経平泉で自刃したのは1189年(文治5年)閏4月30日、義経の首が腰越の浜に到着したが6月13日。

なぜ、そんなにも時間がかかったのか?

その理由は・・・


源頼朝が亡母由良御前の供養のため、また、鶴岡八幡宮の伽藍を整備するために塔を建て始めていたから。

『吾妻鏡』には、3月13日に「塔の九輪」を上げたことが記されています。

この塔は、五重塔であったと考えられているようです。

五重塔は、5月8日には朱色に塗られ、19日には五重塔の供養の日を6月9日と決定されました。


ところが・・・

5月22日、奥州からの伝令が到着し、閏4月30日に義経が自刃したことが伝えられます。

すぐに「穢れが生じた」という理由で、「供養の日を遅らせる」旨を京都へ報告するのですが・・・

事は次々に進んでいってしまいます。

5月25日、新藤中納言兼光が起草し、堀河大納言忠親が清書した供養の願文が到着。

6月3日、天台座主全玄の代官中納言法橋観性が供養の導師として到着。

そして、6月5日、大江公朝が後白河法皇の使者として到着。

翌日早朝には、後白河法皇から下された品が御所に届けられます。


供養の日を遅らせたいと考えていた頼朝でしたが、こういう状況ですので、6月7日には、予定どおりに供養の式典を行うことを決めています。

義経の死から30日が経過しているので、「直接内陣に入らなければ問題ない」ということになったからだといいます。

ただし、義経の首は鎌倉に入っては困るので、運び入れるのを延期させています。


こうして、6月9日に五重塔の供養が行われました。

供養の導師は法橋観性、呪願師は別当円暁(「呪願」(じゅがん)とは、施主の願いを述べること。)。

頼朝も出席しますが、宮寺に近づくのは遠慮して、馬場に桟敷をつくって供養を見守ったということです。



源義経

藤原秀衡


源義経最期の地

奥州平泉


源頼朝の五重塔


鶴岡八幡宮








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源義経には経若という子がいた?


『吾妻鏡』によると・・・

源頼朝と対立して逃亡生活を送ることとなった源義経は、1187年(文治3年)2月10日、平泉藤原秀衡を頼るため奥州に辿り着きます。

その時に妻の郷御前と息子と娘を連れていたようです。

それから2年後の1189年(文治5年)閏4月30日、藤原泰衡に衣川館を攻められた義経は、妻と娘を殺して自刃しています。


さて・・・

平泉に到着したときには息子もいたようですが、最期の場面ではその子は登場していません。

一説によると、その息子の名は経若といい、常陸入道念西に預けられていたのだといいます。

念西は、伊達氏の初代当主・伊達朝宗のことと考えられているようですが、経若を養子としたという伝承があるようです。

そして、この経若が後に下野国にあった中村城の城主となった中村朝定なのだとか。


高館義経堂
(岩手県平泉町)

高館義経堂は、伊達氏二十代当主の伊達綱村によって建てられました。







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国破れて山河あり~奥州平泉~




1689年(元禄2年)、平泉を訪れて高館にのぼった松尾芭蕉は、『おくのほそ道』のなかで、

「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」

という杜甫の詩を引用しています。


100年の栄華を誇った藤原氏の王国が滅んでも、山や川は昔のままの姿をのこしている・・・




奥州平泉


松尾芭蕉のおくのほそ道



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