別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2022年5月24日火曜日

夏草や 兵共が 夢の跡 ~奥州平泉~




高館義経堂にある松尾芭蕉の句碑。




1689年(元禄2年)5月13日、この地を訪れた松尾芭蕉は、100年にわたり栄華を極めた奥州藤原氏や、この地で自刃した源義経を思い、

「夏草や 兵共が 夢の跡」

と詠みました。





毛越寺にも句碑が建てられています。




毛越寺には新渡戸稲造が英訳した碑も。

The summer grass
‘Tis all that's left
of ancient warriors dreams.




松尾芭蕉のおくのほそ道


中尊寺

毛越寺


奥州平泉


源義経

藤原秀衡


源義経最期の地


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2022年5月23日月曜日

源義経の子




源義経の子は何人いたのだろうか?


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

○源有綱の妻

『吾妻鏡』には、「伊豆守・源仲綱の次男・有綱が、義経の婿だと称して、他人の所領を奪いとっている」(1185年(元暦2年)5月19日)という記事があります。

源有綱は、以仁王とともに挙兵した源頼政の孫。

祖父の頼政と父の仲綱は平等院で平家に討たれてしまいますが、有綱は伊豆にいたため助かりました。

源頼朝が挙兵するとそれに従い、源平合戦では義経の与力として活躍しています。

さて・・・

有綱が1185年の時点で義経の娘を妻としていたとすると、妻は何歳なのだろうか?

義経は1174年(承安4年)まで鞍馬寺にいました。

このとき16歳。

鞍馬寺にいる間に子をもうけることはあり得ないこと。

すると、奥州平泉時代の子と考えるべきですが、平泉に行って間もなく生まれたとしても10歳。

有綱の妻とするには、ちょっと無理があるようです。

では、『吾妻鏡』の記事は間違えているのか?

というとそうでもないようです。

昔は・・・

例えば、有綱が義経の妹を妻としていたとしても、有綱は義経の婿という書き方をするのだとか。

妹だとすると常盤御前が産んだ子になるのだろうか???


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

○静御前が産んだ子

『吾妻鏡』には、「義経の妾・静御前が鎌倉で男子を産むが、頼朝は安達新三郎清経に命じて、その子を由比ヶ浜に捨てさせた」(1186年(文治2年)閏7月29日)という記事があります。

静御前は義経の都落ちに同行していましたが、吉野山で義経と別れた後、捕らえられて鎌倉に送られてきていました。

鶴岡八幡宮では、義経を慕う舞を披露しています。





☆ ☆ ☆ ☆ ☆

○正妻郷御前が産んだ子

『吾妻鏡』には、「義経が妻室男女を連れて奥州平泉へ赴く」(1187年(文治3年)2月10日)という記事があります。

妻室は郷御前のことで、男女は子のことなのでしょう。

それから2年後の閏4月30日、義経は藤原泰衡に攻められて自刃しますが、その時、郷御前と娘を殺しています。

ただ、男子がどうなったのかは不明です。


義経妻子の墓






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『吾妻鏡』が伝える平泉館




『吾妻鏡』によると・・・

金色堂の正方に無量光院の北に並べて平泉館があって、西木戸には秀衡の長子国衡、四男隆衡の家が並び、三男忠衡の家は泉屋の東にあった。

秀衡は、無量光院の東門の一郭に屋敷(伽羅御所)を構えて居所とし、これを次男泰衡が相続して居所にしていた。







平泉館



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源義経終焉の地:高館義経堂~奥州平泉~


1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると、奥州の平泉藤原秀衡に庇護されていた源義経は、秀衡のもとを去り、兄頼朝のもとへ駆けつけます。

源平の戦いでは、平家を滅亡させた最大の功労者でしたが・・・

頼朝の許可なく官位を受けたことなどから、頼朝の怒りを買ってしまいます。

1185年(文治元年)、頼朝と対立した義経は、九州へ逃れようとしますが、摂津国大物浦で難破。

逃亡生活を送ることに。

そして、辿り着いたのが、やはり藤原秀衡のいる平泉でした。

義経が平泉に辿り着いたのは、1187年(文治3年)の春ごろではないかといわれています。

しかし、その年の10月、秀衡が亡くなります。

跡を継いだのは泰衡でした。




1189年(文治5年)閏4月30日、義経は、頼朝の圧力に屈した泰衡に衣川館を襲撃され、自刃します。

高館義経堂は、義経終焉の地に、のちの1683年(天和3年)に仙台藩主・伊達綱村によって建てられた堂です。



堂内には義経の木像が安置されています。


供養塔


松尾芭蕉句碑

「おくのほそ道」の旅で、高館を訪れた松尾芭蕉は「夏草や 兵共が 夢の跡」と呼んでいます。



源義経

藤原秀衡


静御前

弁慶


静の舞


奥州平泉

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